頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー5
昔、「日本では海洋小説は好まれない」という趣旨の文章を読んだ記憶があります。日本は島国で、海に囲まれているにも関わらず、海を扱った文学作品は少ないというのです。
確かにそう言われて思い出すのは、白石一郎の『海狼伝』、『海王伝』くらいで、敢えてあげれば、大仏次郎の『ゆうれい船』や『山田長政』を扱った小説くらいでしょうか。
海洋国としての日本は、戦後しばらくして衰えてしまいました。移動手段が、空路にとって代わられたからだと思われます。そのことがさらに海洋への興味を失わせてしまったのでしょうか。
日本は、太平洋、日本海、東シナ海、オホーツク海という4つの海に囲まれている世界でも希な国です。かつて網野善彦は、ヨーロッパの地中海文化に比較して、「環日本海文化」「環シナ海文化」を提唱したことがあります。
中世の東シナ海を例にあげれば、東シナ海を囲んで、日本、琉球、台湾(高砂)、宋・元・明(中国)、高麗・朝鮮という国がありました。この国々は相互に往来し、影響を受けたり、与えたりして歴史を刻んできたのです。そうした大きな視点に立って日本の歴史を考えてみようという提案だったと記憶しています。
確かに現代の観点からみれば、東シナ海にとどまらず、南シナ海も含む大きな範囲で往来があります。でもそれは、中世も同じだったのではないでしょうか。
それゆえに環シナ海を舞台にした海洋小説は、もっと書かれてよいように思います。もしかしたら、現代的な観点を盛り込んだスケールの大きな作品が、求められているのではないかとも思うのですが、いかがなものでしょう。
さて、閑話休題――。
本書は「海賊」に特化した通史です。平安後期の藤原純友から近世初期までを取り扱っています。戦国の終焉とともに海賊は滅んだといってもよいのですが、終章において近現代へ海賊の残したものについても述べています。
海賊というと「海の盗賊」と思っていましたが、歴史書を読んでいると、必ずしも否定的な意味合いでは使われていません。私は長い間、海賊というものがよく分かりませんでした。例えば海賊大将で有名な村上武吉や北条水軍等水軍と呼ばれる者たちは、海の盗賊というイメージにそぐわないからです。
本書はそうした海賊像を4つに整理します。(190~203ページ)
① 土着的海賊=さまざまな目的で船旅をする人、年貢や商品の海上輸送に携わる人を襲って金品を奪う者としての海賊
② 政治的海賊=荘園領主や国家権力などとの関係によって海賊と呼ばれた政治的意味合いの強い海賊
③ 航海の安全を保障する者としての海賊
④ 時の権力とかかわりを持つ水軍としての海賊
そして、①及び②が古代から存在するのに対して③と④は、「中世後期になってから登場する新しいタイプの海賊」ということだそうです。このうち①が、私が海賊に抱いていたイメージだったのです。
本書で取り上げられている海賊は、大きく4つです。始めに平安後期の藤原純友。本書はその実像に迫っています。次に鎌倉時代の松浦党と倭寇、ここでいう倭寇は前期です。そして南北朝(室町)時代の熊野海賊と南朝の海上ネットワーク。最後に戦国大名と海賊との関係を西国と東国とで比較しています。
まず、藤原純友ですが、純友は、瀬戸内海の海賊を率いて、東の平将門とともに朝廷に反した承平・天慶の乱の中心人物として知られています。しかしながら、最近はその「イメージが変わりつつある」ようです。
純友の前半期は、海賊を取り締まる側だったというのです。純友の父は、「従五位下の官位を持ち、筑前守、太宰少弐などを歴任したれっきとした律令官人」の藤原良範です。「良範のおじには藤原家で最初に関白になった基経」がいます。
純友が海賊と関わりを持つようになった「きっかけは、伊予掾に就任したこと」です。承平2年頃のことです。従来は、『日本紀略』の「南海賊徒首藤原純友、党を結びて伊予国日振島に屯聚し」等により承平6年頃には、海賊の首領になっていたといわれていましたが、この「部分は、後世の潤色であることが明らかにされ」ました。つまり承平6年時点ではまだ乱を起こしていないのです。純友が反乱にくみするのは天慶2年末頃のようです。
では、なぜ純友は反乱を起こしたのか、そこのところは、実はよくわかりません。「理由は状況から判断するしか」なく「いずれにしても、純友側に当時の政府に何らかの不満があったことは間違いない」ようです。
逆にいえば、創作の意欲を掻き立てる人物ということになるでしょうか。
1976年のNHK大河ドラマ「海と風と虹と」(原作:海音寺潮五郎、脚本:福田善之)で緒形拳が演じていました。平将門役は加藤剛でした。思い出すだに懐かしいです。その純友は、ドラマでは、将門と京で会ったとき、すでに謀叛の志を抱いていたように思います。
松浦党は壇ノ浦での合戦の際、平家方水軍の重要部分を担っていたようです。とはいえ、この時代の常で一貫して平家方ではなかったようです。
松浦党というのは、党という「中小武士団の総称」で平安時代には成立していました。そして松浦党といえば、倭寇との関係ですが、「松浦党がこれにかかわったことを示す史料は、松浦党が残したものの中にはほとんど見当たらない」のです。結局、朝鮮や中国側から見たもののみということになります。
山内氏は倭寇に係る先行研究の「前期倭寇にも高麗国内の海上勢力が関与していた」というものと「倭寇は日本人か朝鮮人かといった類の問いはほとんど無意味であり」「実態に近い姿で呼ぶとすれば」「マージナルマン(境界人)」がふさわしいという2つの論を紹介し、「松浦党のもとにある住民層が戦乱や飢饉などによる社会的混乱時に、松浦党のくびきから離れて『境界人』としての特性を発揮したとみるべきだろうと」と結論付けています。
薩摩国東福寺城(鹿児島市内)が、貞和3年(1347)6月に熊野海賊以下数千人に襲われます。城主は薩摩国守護島津貞久で北朝方でした。熊野海賊は、当時南朝の勢力拡大を目指した懐良親王の九州渡海に協力していたのです。
熊野海賊といえば、源平時代の熊野別当湛増が有名ですが、その名の通り熊野三山と密接な関係がありました。
しかしながら、紀伊半島に沿った海辺に勢力を持つ海上勢力は他にも多く存在します。山内氏は、そうした勢力を紹介し、東福寺城に攻め寄せた熊野海賊の実態を「熊野灘周辺の海の領主と西瀬戸内各地の南朝方の海の領主の集合体であった」と結論付けます。
戦国時代になると「瀬戸内海を中心に海賊の軍事面での活動が活発」になります。「戦国大名から最も熱い視線を受けたのが、芸予諸島の村上一族」でした。村上氏は能島・来島・因島の3つの家から成りますが、山内氏はそんな三島村上氏の変遷を紹介し、次いで北条氏・武田氏の東国の海賊について述べます。
北条・武田両氏の海賊は、いわゆる〈賊〉というよりも、両氏に従う水軍的な性格の強いものでした。
そして、西国と東国の海賊を比較して、その特徴は「西国には海賊という言葉に賊的ニュアンスが色濃く残っているが、東国にはそれがほとんどない」と述べます。
これはおそらく瀬戸内海という大きな内海の有無によるものでしょう。山内氏も瀬戸内の海賊は、「海の民の生業である」「通行料の徴収」が「海賊にとっては正当な経済行為だったが、航行する船舶の側からすれば、何の標識もない海域を通過していて銭貨を要求されるのだから略奪とみなされることも多かった」といい、「海賊の活動のあり方が変わり、水軍的活動が中心になってからもなかなか抜けなかった」といいます。
海賊たちは、豊臣秀吉の海賊禁止令以降、秀吉、そして徳川家康に取り込まれて幕藩体制の中で生き残ることとなるのです。
こうして、海賊というものを時間軸で見てみると、その華々しい活躍が、平安末期から戦国時代に掛けてであり、優れて中世的な存在だということに改めて気づかされます。