雨宮由希夫

書評『尼将軍』

書   名 『尼将軍』              
著   者  三田誠広
発   売  作品社
発行年月日  2021年9月25日

 

尼将軍

尼将軍

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 頼朝の流人生活を伝える歴史史料はきわめて乏しく、頼朝と政子の運命的な結びつきについては「はっきりしたことはわからない」(奥富敬之『鎌倉北条一族』新人物往来社、昭和58年刊)という。歴史事実という観点から見れば、所詮、小説は“虚”の記述に過ぎないものであろうが、歴史の真実を暴くのは歴史学の専売特許ではなく、小説にも十分に立証能力がある。そもそも伝えられる史実は一部のものであり、伝えられない史実を掘り起こす“謎解き”のような作業は歴史家よりもむしろ作家の得手とするところである。
 作者にとって、『尼将軍』政子は、どうしても書きたいテーマで以前から考えてきたものであるという。

 本作は小説であるから、脚色が施されているが、事件はおおむね史実通りにおこる。作者は史実の奥底に潜む人間の物語として政子69年の生涯と政子の生きた時代を再現している。骨格のしっかりした全8章の構成の中に、歴史上の人物がそれぞれに生きているので、ドラマを見るように興趣深い。遺された史料と作家の想像力で挑んだ、端正な文体による文学作品である。
 第4章「御曹司が鎌倉に幕府を開く」の、建久8年(1197)7月、木曽義仲の息子・義高との悲恋で有名な頼朝・政子夫妻の長女大姫(おおひめ)の病没までが前半生と言える。大姫の死で政子は初めての挫折を味わうが、愛娘を失った悲しみよりも、「大姫入内」の野望が挫折したことの悔しさが上回ったとし、「これより後の政子の人生は挫折の連続」であったとする。

 本作のキーワードは「台盤所(だいばんどころ)」である。台盤とはもともと「食膳」の意味だが、女人の称号となる。既に東国支配の総帥となった頼朝は「鎌倉殿」と称され、東国全体の「台盤所」となった政子は台盤所に尊敬を表す「御」をつけて「御台所」と呼ばれる。武門の頭領の正妻としての「御台所」の政子は家族だけでなく、御家人たちを差配する立場に立つ。
 政子の弟で、平家に対して反乱を起こすという野心の持ち主の三郎宗時(さぶろうむねとき)は「姉君と源氏の御曹司たる頼朝を旗頭として新たな国を築く」という野望に燃えている。しかも「これは源氏の戦さではない。北条が起こす戦さだ」(第二章「国府を襲って旗挙げを敢行」)と、頼朝の旗挙げ以前に、源氏の夢ではなく北条氏の夢を語っていることは注目に値する。
 政子と頼朝との結婚、頼朝の挙兵に介在していたであろうさまざまな人間関係の描写に目が離せられないが、極めつけは政子と頼朝の間柄の描写である。
政子は「こやつはただの旗だ」「この御曹司は自分のものだ」と意識的に頼朝を誘う。思いを果たすや、政子は頼朝に「わたしの婿となるほかに生きていくすべはないのです」と囁く(第二章」)と。そもそも、政子にとっての頼朝はこのような存在であったとするのである。

 政子の人生において重要な役割を演じるのは、第2代執権として鎌倉幕府を牽引することになる政子の弟・北条義時である。三郎宗時が石橋山合戦で戦死したため、宗時の弟・四郎義時が北条氏の嫡子の座に就く。義時は「台盤所」「御台所」「尼御台」「尼将軍」と呼び名は変わっても地位と権勢を保ち続けた政子と手を携え、源家の血筋を根絶やしにして鎌倉を北条がものにしていく。
 政子の後半生は正治元年(1199)頼朝の死去の第五章「頼朝の急死と二代将軍頼家」から。頼朝亡き後、梶原景時の排斥、比企氏の乱、畠山重忠の討伐、和田合戦と幕府を揺るがす事件が次々と起こる。幕府草創期に頼朝を支えた畠山、比企、和田らの一族が北条氏の策略によって次々に滅ぼされていくが、その度ごとに北条のみが肥え太っていく。その際、政子の関与は?

 政子が生きた時代の特質は何か? 一言でいえば「陰湿な暗さ」ではないか。怪しい陰謀と讒言の横行による無数の人間の酸鼻を極めた犠牲、おびただしい非業の死が繰り返された。生き延びるために、ライバルはもちろん、子が親兄弟を殺す陰惨な戦いが日常であった。鎌倉は坂東武者の血と屍の上に成り立つ修羅の府となった。そうした鎌倉にあって政子は「幕府はわれが差配す」と決意する。政子による政治支配のそもそもの始まりは宿老13人による合議制の導入を決めたことである。頼朝の未亡人で、頼家の実母である「尼御台」政子は頼朝死の3か月後に早くも、後継将軍頼家による訴訟親裁を止めて宿老13人の合議制に改めている。この13名の重臣の内、後に、梶原景時比企能員和田義盛の3人が北条氏の巧妙な策略によって命を奪われていくが、宿老13人による合議制導入が将軍頼家の外戚として比企氏が「第二の北条氏」となることを拒む北条氏の意志表明であったことは明白であった。政子は北条氏の代弁者として大きな役割を果たしていたのである。本作には、景時を討ち、頼家を廃嫡し、比企一族を滅ぼさんと、政子が義時と三浦義村に囁くシーンがある(第五章「頼朝の急死と二代将軍頼家」)。

 頼朝死後の鎌倉幕府の体制はじつに政子によって保たれていたといってよく、政子の主導権によって、頼家の排除、頼家から実朝への将軍職移譲が図られた。
 実朝の暗殺は建保7年(1219)正月27日、実朝の右大臣拝賀の式典の日。本作はその3カ月ほど前の建保6年11月(1218)、実朝が右大臣昇叙すると決定した頃、義時、義村、そして政子の三人の密議がなされ、しかも、尼御台の裁量で暗殺が決定されたとし、そのシーンでは、政子に涙がない。
 三浦氏は幕府創立以来の北条氏と並ぶ有力御家人である。三浦義村は義時の盟友で、13名の宿老の一人だが、政子在世中はついに表舞台に出られず、義時の影で暗躍した人物である。本作では、政子は「常に怪しい策謀を肚の底に隠している」として義村を信用していないが、「(実朝暗殺の)すべては三浦義村が謀ったことだろう。義村に実朝を殺せと命じたのは自分だ。嗚咽がこみあげてきた。嗚咽がたちまち号泣に変わった」(第七章「雪の鶴岡八幡宮で実朝暗殺)。

 頼家・実朝の死は謎に包まれている。夫・頼朝が鎌倉幕府を担うものと期待したであろう愛する我が子二人と実の孫のすべてを失うことになる政子は決してこの間の首謀者ではなく、彼女はその地位を利用されたとする説があるが、本作はそうした説に与しない。政子は愛児二人の謀殺の共犯者なのである。
 実朝死後の摂家将軍時代、政子は、文字通り「尼将軍」として執政した。
 政子の大目的は「われには鎌倉殿のご遺志を継いでこの鎌倉幕府を護る責務がある」「鎌倉を築き護ってきたのは、このわれじゃ」(第六章「将軍実朝のはかない夢の跡」)の言葉に表されるように、鎌倉の覇業を永遠に維持することにあったと作者は記す。史実通りであろう。
 北条政子についての観方は、両極端の観方がある。「屈指の政治家」とするものと母性愛を喪失した「悪女」とする観方である。
 本書最大の特色は、政子の呼び名を「万寿」としたことである。『蘇我物語』で「万寿御前」と呼ばれていることを踏まえたものであろう。なぜポピュラーな「政子」ではなく、「万寿」なのかと言えば、「政子」につきまとう一般的なイメージを払拭することに狙いがあったのではなかろうか。こうすることにより、北条政子とは何者かの性格付けが鮮やかな造形となった。野性の強い女性 強烈な個性。行動に対してためらいがなく、思ったままをする。「悪女」と言われた政子の別の側面が見え、政子の赤裸々な人間としての性質が抑制された筆致の中に浮かび上がってくる。
 頼朝との結びつきから承久の乱の際の演説まで、政子はベストを尽くし、そうせざるを得ない人生を歩んだが、それで良かったとするのか、後悔するのか、選択の良しあしは政子自身も本当のところはわからなかったのではないか。作者は「政子の後半生は挫折の連続であった」と記している。「挫折」という言葉の中に、権力者の孤独と母性愛という人間としての弱さを重ねたいものである。
 同時期に刊行されたアンソロジー『小説集 北条義時』(作品社)に作者は「解説」を書いている。併せ読みたい。

            (令和3年11月22日 雨宮由希夫 記)

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