書名『橋場の渡し 名残りの飯』
著者 伊多波 碧
発売 光文社
発行年月日 2021年9月20日
定価 ¥680E
4つの短編連作の「市井人情もの」時代小説集。
伊多波碧(いたばみどり)は1972年 新潟県生まれ、信州大学人文学部卒。2001年作家デビューで、最近は『リスタート!』(2019)、『父のおともで文楽へ』(2020)と「現代もの」が続いているが、主戦場は「江戸市井もの」で、本書は久々の本家帰りの作品といえる。
千住大橋から目と鼻の先にある橋場の渡し(別名「白髭(しらひげ)の渡し」とも)の側に「しん」という一件の一膳飯屋が舞台である。目の前には奥州街道、水戸街道、佐倉街道が拡がる。そこで繰り広げられる人間模様がまぶしい。
「しん」はおしげとおけいの飯屋の女将母娘、それに勝手場を一手に担う平助(へいすけ)なる老人の三人で切り盛りしている場末の飯屋なのだが、橋場に立ち寄る旅人相手の店である。近所でも二人は仲の良い母娘で通っているが、おしげは53歳、日本橋の飛脚問屋「藤吉屋」の女将だった。35歳のおけいは細面の痩せ形の母に似ず丸型のお多福で、見かけは愛想のいい若女将で通っているが腹の中に澱を持つ出戻り女でもあった。嫁ぎ先から離縁され、一人息子の佐太郎(さたろう)と引き離され今は会うこともできないのだ。
おけいには三つ下の弟新吉(しんきち)がいる。飯屋の屋号の「しん」は新吉に由来する。
「しん」の白きの看板は、新吉の帰りを待つ母おしげが遠目からも見えるようにとの思いを込めて書いたものである。
新吉は7年前の天明4年(1784)冬、姉おけいが婚家を追い出された原因をつくり、江戸十里四方払いとなり、橋場の渡しから去っていった、とあるから、物語は寛政3年(1791)を背景としてスタートしていることがわかる。
寛政3年はオットセイ将軍の異名を持つ家斉(いえなり)の治世下、山東京伝(さんとうきょうでん)が手鎖50日の刑を受け、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)の美人大首(おおくび)絵が発表されて人気を呼んだ年であり、江戸大相撲興行が深川富岡八幡宮から本所回向院に移され、上覧相撲が吹上御所で行われた年でもある。
とかく、時代小説というと、時代背景を曖昧にしたまま、物語が展開されることが多いが、このように年代が明確であることは、読者に物語の背景に「歴史」そのものを思い浮かべさせ、物語に入ることを容易にする。
新たなシリーズの開始である本書の主人公たちは渡し場に立ち寄る旅人を主とし、「しん」で交錯する様々な人々である。第一話の元相撲取りから、恋人の本心も知らずに逢瀬を楽しむ若い芸者(第二話 梅雨明け)、医者を目指して母親と離れ遠く長崎で暮らしてきた息子(第三話 親孝行)、可愛い一人娘を嫁に出すも婚家にいびり殺された父親と母親(第四話 豆餅)まで、年齢、職業と幅広い。そうした主人公たちと「しん」で働く三人のもう一つの主人公たちと、全く住む世界を異にするそれぞれの生き方が重なりあって、何とも言えない人生ドラマが展開される。作者の人間観察のたしかさに読者はひきこまれていくことであろう。
第一話の主人公の佐千夫(さちお)は25歳、元相撲取り。相撲部屋を飛び出した佐千夫は行く当てのない旅に出るべく、橋場の渡しにやってきて、「しん」で江戸最後の食事をとる。注文したのは天婦羅である。副題に「名残りの飯」とあるように、本書は料理小説でもある。全4話の背景は春、夏、秋、冬と物語の進行に合わせ、順序良く配置されている。季節に合わせた料理の品々が紹介されるのも読みどころである。
5歳の時、実の父親に捨てられた佐千夫は「親方と女将さん」に拾われ、相撲取りとして育てられた。一人前の相撲取りになって恩返ししたい一心でやってきたが、さて、これからという時、ぶつかり稽古で怪我をしたのがもとで幕内から陥落、後は下がる一方。医者からは完治はむずかしいと宣告された。勝てなければ勝負ごとに生きる相撲取りはおしまいだ。無駄飯を喰わせてもらうわけにはいかないと、部屋にいるのがつらくなり、相撲部屋を出る決心をするのだが、要するに、親方から引導を渡されるのが怖くて逃げてきた、人生の負け組なのであった。
季節は春。もうじき春場所である。
「しん」に居合わせた客のひとりが佐千夫を相撲取りの嵐山(あらしやま)だと知る。面が割れた佐千夫は相撲取りを辞めたことを伝えると、客たちは興味半分の同情心から余計なおせっかいを言い出す。佐千夫がそれを不快に思うのは当然だろう。
大関にはなれなかったが、谷風(たにかぜ)の預かり弟子にとの話が出るほどの将来有望な幕内力士であった佐千夫には力士としての自負があり、客たちのお節介を不快に思うのだ。気まずい雰囲気が店内に漂い、勘定を済ませ店を出ようとして立ち上がる佐千夫。そこへ、親方と女将さんがやって来る……。
向かう先などなく、ともかく江戸から離れようとしている佐千夫の出奔は親方夫妻に見破られていたのである。必死の思いで佐千夫を引き留めようとする夫妻。「親子の間でそういう遠慮は無用だ」と親方の一言。このときになってはじめて身寄りのないただの大男にすぎない佐千夫は、親方夫妻が単に目を掛けてくれているばかりでなく、ずっと以前から自分のことを本当に息子だと思っていてくれたこと、端からそのつもりで拾ってくれたことを思い知る。
「生きることの苦しさに慣れ、それでもやっていこうと思える日が来たら、二人のもとに帰ればいい」と佐千夫は育ての親たる親方と女将さんとの別れを前にして決意する。五つの時に出会い、20年経ってようやく親子となれた三人は橋場の渡しで、再会を誓いつつ、別れる……。
黄昏時にふと思い浮かべるあの郷愁に似た何とも言えない情景描写が醸し出されているこのシーンは感動的である。 その三人を見守る、おしげ、おけい、平助の「しん」の三人。
「生きてくってのは楽じゃねえ」と呟く平助。まもなく還暦を迎える白髪頭の老人の独り言が胸に沁みる。7年前までは魚河岸で仕事をしていたということまでしかわかっていない平助の来し方も平坦なものではなかったであろうと推測される。おけいの弟の新吉は姉が婚家を追い出される原因をつくったとされるが、その詳細もこれからひとつづ明らかになるのであろう。
人生、出逢いもあれば別れもある。親子の別れには生き別れと死に別れがある。おしげと新吉、おけいと佐太郎の再会までに、「しん」に立ち寄る旅人との間にいかなる物語がつむがれるか、はやくも続刊が待ち遠しい。
物語の進展に沿って次第に浮かび上がってくるものは女という性、女という生き方そのものであり、揺れ動く女心の細やかな心理描写が作家伊多波碧の世界そのものといえる。光文社時代小説文庫の一冊として刊行された本書の帯に、「ほろ苦さの後に、爽やかな味が残る人情物語」とあるが、まさにいい得て妙、ほろ苦さと共に爽やかな読後感を与える作品である。
(令和3年10月11日 雨宮由希夫 記)