書名『義元、遼たり』著者 鈴木英治 定価 1800円
書名『氏真、寂たり』著者 秋山香乃 定価 1900円
発売 ともに 静岡新聞社出版部
発行年月日ともに 2019年9月20日
書名『義元、遼たり』著者 鈴木英治 定価 1800円
書名『氏真、寂たり』著者 秋山香乃 定価 1900円
発売 ともに 静岡新聞社出版部
発行年月日ともに 2019年9月20日
「海道一の弓取り」と称され、東海に覇をとなえた戦国大名今川(いまがわ)義元(よしもと)は永正16年(1519)に生まれた。「義元生誕500年」の節目の年に当たる令和元年の今年、静岡新聞社出版部は静岡県在住の夫婦作家鈴木英治・秋山香乃を書き手として、義元(よしもと)・氏真(うじざね)の今川父子の一代記を歴史小説としてそれぞれに描き、2冊同時に刊行するという特筆すべき企画を立て実現させた。
2004年に刊行された小和田哲男の『今川義元』(ミネルヴァ書房)によれば、「義元は、駿河、遠江において、確実に一時代を築きあげた歴史上の人物であるが、現在の静岡県内には、義元の銅像はおろか、観光スポットになっているところすら一カ所もない」という。義元に対する一般的評価が低い要因として、小和田は「桶狭間の戦いのぶざまな負け方」と「義元の子氏真がずるずると、家を滅亡させてしまったこと」の二点を挙げている。
鈴木英治の『義元、遼たり』と秋山香乃の『氏真、寂たり』、まさに鴛鴦作家の競演というべく新作で、義元氏真父子はいかに再評価されているのか。通説通りの「暗愚な武将」であったのか、それとも有能な武将であったのか。
『義元、遼たり』
本書は6章構成であるが、5章までが仏の道を捨ていかにして武将として生きる道を選んだ若き日の義元に焦点を当て、天文5年(1536)の花蔵(はなくら)の乱前後が詳述され、最終章の6章は今川家の当主となった以後の義元の足跡と永禄3年(1560)桶狭間の戦いが描かれている。
義元には3人の兄(長男 氏輝、次男 玄広恵探(げんこうえたん)、三男 象耳泉奘(しょうじせんじょう))、一人の弟(五男 氏豊)がいた。4男の義元自身は長男以外の二人の兄同様、幼くして僧門に入り、栴岳承芳(せんがくしょうほう)という名の臨済宗の僧であった。少年時代の義元は、太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)にともなわれて京都で生活し、公家たちと交わった。太原崇孚雪斎は駿河出身の京都建仁寺の僧で、若くして幼少の義元の教育係となり、のちに義元の軍師になった人物である。
物語は天文4年(1535)11月、駿河に戻ることが決まった義元が京を立ち、奈良西大寺で修行する象耳泉奘を訪ねるところから始まる。
天文5年3月17日、兄氏輝が24歳の若さで急死したことが、義元の生き方を変えた。家督候補は僧籍に在った3人に絞られたが、庶兄象耳泉奘は家督継承に全く意欲を見せていない。泉奘は武将として生きることより、仏教者として生きる方に魅力を感じる人物だったと造形されるが、作家はそこに武将として生きざるを得なかった義元のもう一つの生き方を投影しているのであろう。
氏輝が夭折した段階で、義元への家督継承が決まっていた。その流れにもう一人の庶兄玄広恵探が抵抗し始める。側室腹の恵探にしてみれば、正室腹の義元より自らが年長であるとの意識が強かったのだろう。氏輝と義元の母は「女戦国大名」として君臨したことでも名高い氏親(うじちか)の正室 寿桂尼(じゅけいに)で、玄広恵探の母は側室の福島(ふくしま)氏。恵探の外祖父たる福島越前守は今川氏の屈指の重臣であった。義元を後継者になさんとする雪斎の策謀の下、今川家を二分する家督争いが始まる(花蔵の乱)。
天文6年(1537)2月10日、家督をついたばかりの義元は武田信虎の娘(信玄の姉)を妻に迎えている(甲駿同盟)。信虎は北条氏綱の敵対者であり、義元のこの行為は花蔵の乱で義元を支援した北条氏綱の神経を逆なでするものであった。
武田氏の妻は翌天文7年に、義元の嫡男氏真を生むが、天文19年(1550)に歿している。氏真は12歳で母を亡くしているのである。
天文21年(1552)11月 義元の娘(氏真の妹)日奈が武田信玄の嫡男義信に嫁ぐことを契機とし、翌年正月には信玄の娘南殿が北条氏康の嫡男氏政と婚約し、翌翌年7月には北条氏康の娘志寿が氏真に嫁ぐことが決まる。三つの政略結婚により、三家は互いに婚姻関係で結ばれ、いわゆる「甲相駿三国同盟」の成立をみる中で、天文24年(1555)3月 三河松平家の人質として今川家で暮らす松平竹千代(14歳、のちの徳川家康)の元服式が浅間神社で義元を烏帽子親として執り行われている。
氏真は家康より4歳年上。「五郎」(氏真)、「次郎三郎」(家康)と呼び合う仲で、「実の兄弟のように育った」と鈴木英治は描く。氏真の幼少期から桶狭間の戦いに至る時代を背景とする6章は秋山香乃の『氏真、寂たり』と重なる。読み比べながら読み進むのも一興である。
周知のごとく、桶狭間の戦いは、永禄3年5月、織田信長が今川軍を尾張の桶狭間で破り、駿河・遠江・三河の3カ国の太守今川義元の首まで取った戦いである。問題は、総大将の義元が率いた2万5千もの西上の軍はいかなる目的を持っていたかである。通説では、義元が上洛し天下に号令するための軍事行動であったとされたが、最近では、「京に上がるのが目的」とす
る説は否定されており、本書も、また『氏真、寂たり』も、それに拠っている。そもそも、鈴木英治には1999年第一回角川春樹小説賞特別賞受賞作である(応募時の題名は「駿府に吹く風」) 『義元謀殺』がある。鈴木のデビュー作でもある『義元謀殺』で、今川家というそれまであまり描かれていなかった視点で桶狭間をとらえ、「義元の尾張侵攻の目的は、大高城と鳴海城の包囲を解き、あわよくば尾張国を今川の領国に組み込むことにあった」としている。
運命の5月19日。首のない義元の無惨な遺体が残った――。
義元は泥田に倒れながら、織田方の武者の指を噛みちぎる執念を死の間際までみせる。悲憤の死であったのであり、義元は決して京都文化に耽溺しただけの凡庸な武将ではなかったのである。
一年後の永禄4年5月19日。桶狭間の地に立つ象耳泉奘の姿がある。義元も、信長同様、平和な世を望み、「天下静謐」を希求したとして、兄義元をしのぶラストシーンが印象的である。新たな義元像の造形というべきであろう。
『氏真、寂たり』
通説では、父義元の横死後、狼狽えるばかりで桶狭間の弔い合戦も成し得ず、尻つぼみに勢力を喪って、やがては父祖の地である駿河・遠江を家康に奪われた氏真は、「人となり暗弱、暗愚なり」と将帥としての器量に乏しかったとされた。作家秋山香乃は通説のことごとくを検証しすることによって史実を確認しつつ、これまでの氏真像を鮮やかに覆して、斬新で魅力ある氏真像を造形している。
10章構成。3章までは、北条の姫志寿がわずか8歳で17歳の氏真のもとに嫁入りし、仲睦まじい関係を築いて過ごす、桶狭間前夜までの穏やかな日々が綴られる。4章以降が桶狭間以後より、最晩年まで。
氏真の生涯において欠くべからざる人物は史書に「早川殿」と記されている生涯の伴侶であった妻志寿であり、もう一人は家康である。
氏真にとって家康は11年も共に過ごした昔馴染みであり、家康の今川人質時代の不思議な縁で結ばれた絆があったとする作家による氏真・家康相互の人的関係の描写が秀逸である。
氏真は「兄者、兄者」と慕ってくる竹千代(家康)のことは好きだったが、「あれは、人の上に立つ男の目をしていた」と絶望に近い気持ちで確信した。かくいう氏真は自らを「戦国という世に合わぬ自分の性質」と決めつけ、自身の性質の甘さに悩み苦しんでいる。一方の家康はそうした氏真に苛立ちを覚える、という関係である。主従の関係が逆転し、氏真が家康に隷属することになる晩年に至るまで、この二人の阿吽の呼吸というべきものが醸し出す雰囲気は、余人が入り込めないものであったと物語られる。これまで誰も書かなかった家康がここには居る。
3章。桶狭間。留守将として駿府にとどまっていた氏真は父義元の死と未曽有の敗退の知らせを受ける。家康(松平元康)は義元の敗死を契機として、正妻と嫡男を今川家の人質とされていたこともあり、氏真とは不即不離の形をとる。が、結局は主家たる今川と絶ち、信長と同盟。家康の裏切りを聞いた氏真は自分でも驚くほどの怒りと憎しみを家康に感じる。
4章。義元亡き後、氏真が領国支配を担うことになるが、三河では「三州錯乱」、遠江では「遠州忩劇」とよばれる事態となり、国人領主たちの離反が相次ぐ。
5章。敵と一戦も交えぬうちに、今川軍全軍が瓦解。21人の武将の裏切りに遭い、居城を捨てることになる氏真は自らを「哀れな馬鹿者」と嘲笑う。
6章。永禄11年(1568)12月、東から甲斐の武田信玄が駿府に、西から三河の徳川家康が遠江に同時に攻め込み、氏真は駿府を守ることができず、遠江の掛川に逃れる。翌年5月、攻防5ヶ月後、和議の成立。家康と9年ぶりの再会、対面。
7章。掛川城開城後の氏真は、ついには岳父北条氏康の小田原に走るが、その3年後の元亀2年(1571)12月、氏康が死するや、妻の兄氏政は武田氏と同盟。あくまでも武田と戦いたい氏真は北条領を後にし、浜松の家康のもとに赴く。
通説では、掛川城を明け渡した時点で、戦国大名としての今川氏は滅亡したとされるが、この段階では滅亡しておらず、また氏真が対武田戦への参戦の意志を示して行動したことが、克明に綴られていることは本書の読みどころであり、勘所でもある。
これまで、巷説では、落魄した氏真は諸国を放浪、徘徊したとされた。
氏真が父義元の敵の面前で蹴鞠に興じたという名高いエピソードはその最たるものだが、8章で作家は単なる「蹴鞠」の話のみに止めず、新たな物語を紡いでいる。天正3年(1575)3月、家康のお膳立てにより、京都相国寺にて信長と対面した氏真が信長と対等に渡り合うが活写されているこの章だけでも読者は紐解いてほしい。
これまで見たように、氏真にとっての人生の転機は幾たびかあったが、作家は、その転機ごとに、当時の冷徹きわめる現状を直視しつつ、氏真の足跡をたどり再現している。
慶長19年(1615) 12月28日 氏真 没す 享年77。
またとない伴侶である志寿の死はその前年の慶長18年(1614)。家康は2年後の元和2年(1616)に歿している。
武田・北条の滅亡、足利・織田の没落、ほどなくの豊臣の滅亡を見つつ、氏真は乱世を生き抜いた。
22歳で桶狭間と遭遇した氏真はその後55年を生きた。その長い年月の中での忍耐との戦いは戦闘以上のものであった。
生きるとは葛藤と選択の繰り返しであり、己の矜持を貫くためには捨てざるを得ないものもある。
家康は駿河の旧主だった今川氏に何らかの政治的価値を認め、氏真の子や孫を旗本として取り立てた。江戸時代、今川家は大名としては生き残れなかったが、高家として家名を存続させることができた。
身の丈に合った生き方を選んだ氏真は自らの生きざまを敗北の人生とは思わなかったに相違ない。敗者であるがゆえに、歴史の闇の中に不当に押し込められていた氏真を、作家
は映えいずる光の中に位置づけたのである。
東海最大の文化都市駿府(すんぷ)(現・静岡市)は「駿河の国府」、府中であり、市の中心部には賤機(しずはた)山がある。
「いつもどんな時も、氏真は賤機(しずはた)山に登る。賤機山だけが、真の氏真を知っている」と作家は深い愛着を込めて結んでいる。
すぐれた歴史小説を読むと、その舞台となった地を探訪したくなる。240余年、今川氏栄耀(えよう)の地である静岡市を訪ね、氏真が愛妻志寿と手を取り合って上った賤機(しずはた)山に登りたいと思う。
(令和元年9月21日 雨宮由希夫 記)