書名『有楽斎の戦』
著者 天野純希
発売 講談社
発行年月日 2017年8月22日
定価 ¥1600E
本書は「本能寺の変」「関ヶ原の戦い」「大坂の陣」という、戦国史に残る三大事件を時代背景に、それぞれ、織田有楽斎ともう一人の人物を主人公に配した6編の連作短編で構成された歴史小説である。有楽斎のみが三大事件のすべての現場に居合わせている。
幼名は源五、長じて長益と名乗った織田有楽斎は織田信秀の11男で、13歳も年下の覇王信長の弟である。なぜに有楽斎なのかの問いに、天野は「本書刊行記念エッセイ」(『現代小説』2017年9月号所収)で、「大ピンチをことこどく乗り切る強運。悪評をものともしない精神的タフさ。有名人の弟のくせに経歴に空白部分が多いのも、作家的にそそられる」と応じている。
本書の巻頭を飾るは「本能寺の変・源五郎の道」の章。
主人公は「私」、源五郎長益の一人称である。数奇の世界に魅了された35歳の「私」が武人としての栄達は捨て、千利休を師と仰ぎ、茶の湯の道に生きようと、己の生に意義を見出すところからスタートしている。しかし、一年余の後の、天正10年(1582)2月、「私」は武田討伐の軍中にあった。戦は嫌いだが、信長の弟として生まれた以上、戦と無縁ではいられないらしい。有楽斎にとっての信長という存在は常に恐怖の対象としてあるが、今の「私」があるのはすべて兄のおかげであることも事実である、と作家は有楽斎の心性を造形している。持って生まれた宿命という他はないということであろう。
さらに刮目すべきは、甲州征伐で「私」と轡を並べる人物として甥の源三郎信房(のぶふさ) (信長の5男、勝(かつ)長(なが)。幼名坊丸)を登場させていることである。勝長は本能寺の変に際して、兄信忠に殉じて討死した信長のもう一人の息子である。幼くして東美濃の岩村城主の遠山景任の養子となり、やがて人質として武田家におくりこまれ、武田氏の下で元服、勝長と称した。織田・武田の戦いを前にして勝頼より信長に送り返され信房と名乗り改め、更には青春のほとんどを過ごした思い出深い甲斐国に攻め込む。遂には、そのわずか4ヶ月後、本能寺で討死。数奇な運命のもとに生まれ、時代に翻弄されたまさに流転の生涯を送った人物である。
諏訪の法華寺の本堂で、武田攻めの論功行賞が行われた際、信長が明智光秀を折檻するという名高いシーンがある。
光秀の顔を蹴り上げる兄。その兄信長を「事実上の兄の家来であるが、あくまでも盟友である」家康が折檻を辞めるよう諫める。そこで信長は「天下を平定しても戦は続く」との言葉を発する。
人物配置の妙。切り取りが絶妙である。ひとつかみの文章によって、歴史の場面が彷彿と浮かび上がってくるのである。明敏な読者は状況描写から織徳同盟の本質を、信長が口走った発言から、光秀謀反の遠因を見出すことであろう。
信長が大陸出兵をいつごろから意図していたか諸説あるが、それはひとまず置くとして、武田氏を滅ぼすことにより、信長による天下統一がほぼ完成したと一息ついた光秀が、「信長が天下人の座にある限り、戦は果てることなく続くのか。このまま織田の陣営にあってもいつも最前線に立たされ、いずれは死なねばならぬ。つまりは信長に殺される」とこのとき覚悟したものと読み取れる。
さて、本能寺の現場。天正10年(1582)6月の本能寺の変の際には、有楽斎は信長の嫡男信忠と共に二条御所に一時立て篭もるが、信忠は自刃、長益自身は城を脱出し、岐阜まで逃れたとされ、「逃げの有楽」の異名がある。巷説では本能寺の変の際に信忠に自害を進言したのは長益だとされるが、このとき、長益は信忠の遺志を託されたのではないかとの見方もできよう。
本書では、ただ、「自害を決意した信忠がはじめて声をかけてきた。『「叔父上は、好きになされるがよい』」とある。ここでも、ひとつかみの文章によって、有楽斎の心性を奥深くとらえる手法が冴えわたる。
兄信長は死んだ。もう、自分を縛るものは何もない。京を出よう。そして武士など捨て、信長の弟ではないただ一人の男として、茶の湯の道に生きよう。
嗤われようと蔑まれようと己の道を進むのだ。生き京を出られたら、「私」は甲斐へ行くつもりだ。この手で命を絶った甥信房の遺髪を彼の地に埋めてやる。 それが私の、織田家の男としての最後の仕事になるだろう。「私」の生涯で戦場へ出ることはもうないであろう、と有楽斎の独白は続くが、二人の甥の死に立ち会って、「私」が命に代えて供養しようとしたのは、普段は武将として叔父としての自分など歯牙にもかけぬ信忠ではなく、薄幸の信房であったのである。
本能寺の変後、有楽斎は秀吉に仕えた。武将としてより茶人として仕えて御伽衆に甘んじている。秀吉が没すると家康に接近し、慶長5年(1600)(54歳)、関ヶ原の戦いでは、家康の要望で駆り出され、東軍に属して手柄を立て、大和国3万石という過分の功賞を授かっている。関ヶ原の戦いのあとも、大坂城に在り豊臣家に出仕を続け、豊臣秀頼の母・淀君の叔父として豊臣家を補佐した。大坂冬の陣では大坂城に入り、城内の動静を探り、徳川方に内通する間諜の役を務めていた。それがための大和国3万石であった。淀殿・秀頼母子を思う叔父心には偽りはないであろうが、すべては茶番であった。家康の盟友であった信長の弟として別格の扱いを受けたが、秀吉の天下取りに利用されたように、天下人家康にも利用された。織田ブランドは大きく、本人もそれを十分意識して活用して生きのびる。数寄の世界に魅了された有楽斎は生きる為に足掻く。それが有楽斎の戦であった。
3事件すべてに共通する主人公は有楽斎だが、各事件には有楽斎とは別にもう一人の人物を主人公として登場させた短編が添えられ、有楽斎の生きた戦場が別視点で描かれている。
「本能寺の変」では、信長に招かれて本能寺の客殿に宿泊し、変事に遭遇するや、空海の筆跡を持ち帰った博多の豪商にして茶人の島井宗室。「関ヶ原の戦い」では、東西両軍の命運を握り、道化を演じることにより徳川の天下を決定的なものにしたが、徳川に謀殺された裏切り中納言・小早川秀秋。「大坂の陣」では、真田幸村を討つなどの武功を挙げ、天下を夢見た”家康の孫”松平忠直、の三人である。複眼で3事件の真実に迫るとともに、有楽斎の戦の特異さを際立たせている。
天野(あまの)純(すみ)希(き)は1979年愛知県生まれ。愛知大学文学部史学科卒業。2007年「桃山ビート・トライブ」で第20回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。13年『破天の剣』で第19回中山義秀文学賞を受賞。今年春5月には、信長によって人生を狂わされた7人の男を主役として書き、連作として繋ぐことによって、信長の「影」を逆照射し、信長とその時代を描き出すという従来の<信長もの>とは違った異色の歴史小説である『信長嫌い』(新潮社)を上梓したばかりである。
過去の歴史はもはや変わりようがなく、私たちの知り尽くした物語が展開されつくしても、ひとの生きざま、死にざまを垣間見て何とも言えない気分を感じさせるのは作家の持つ天賦の力量、才なのである。歴史時代小説という文芸に力があるのはこのような雰囲気を醸し出すことができるからである。そういう当たり前の感慨を改めて確認した思いである。
やはりこの作家の作品は見逃せない。
(平成29年9月21日 雨宮由希夫 記)