書 名『絵師金蔵赤色浄土』
著 者 藤原緋沙子
発行所 祥伝社
発行年月日 令和5年5月20日
定 価 ¥1925E
「絵金」、何と俗な名前か。しかも、一度耳にすると決して忘れられない強烈な余韻が残る名前であるが、浅学菲才の身で、本書に出会うまで、絵金という人物について、全く知らなかった。恥じ入るばかりである。
狩野派の絵師ながら狩野派とは異なる画風の芝居絵屏風、絵馬提灯などを残し、絵師金蔵という意味の「絵金さん」の愛称で親しまれ“謎の絵師”とも呼ばれる金蔵は幕末の土佐に生きた天才絵師だが、また、坂本龍馬や武市半平太の土佐勤王党とこれほどまでに深くかかわった人物とは思いもしなかった。
山と海に阻まれ、古代の流人の地として名高い南国土佐の特殊な風土は長宗我部元親・信親、坂本龍馬などの多くの「いごっそう」気骨ある逞しい人物を生み出したが、絵金を通じて、山内容堂、吉田東洋、武市半平太ら土佐人の別の顔も浮かんでくる。これまで、騒然とした幕末維新の狂気、因循姑息な土佐藩の狂気の下での容堂、東洋、半平太、三者三様の在りように、しっくりこない苛立ちのようなものを感じていたが、金蔵という「いごっそう」が土佐に存在したことを知って、なるほどと得心するのである。
18歳の金蔵は文政12年(1829)2月、江戸に出て本格的な狩野派の画法を学ぶ。修行期間を足かけ3年で修了し、天保3年(1832)高知に帰郷、土佐藩家老桐間蔵人清高の「預かり支配」(お抱え絵師) に取り立てられる。
金蔵が狩野探幽の贋作を描いた罪で牢獄に繋がれる贋作事件は絵金の生涯最大の事件と言ってよい。通説では「土佐に帰国して、数年後に贋作事件がおこる」とあるが、正確な年代は解らない。天保6年(1835)24歳の時とする説もあるが、本作は33歳の弘化元年(1844)の頃としている。
出獄以後没年まで、金蔵は官を離れた在野の画工・町絵師として、絵馬や夏祭りの宵宮をかざる台提灯絵、祝い絵の下絵などを描くのだが、事件後の金蔵の足取りにも不明な点が多く、諸説ある。叔母を頼って長宗我部氏ゆかりの赤岡町(現・香南市)に移住し3年4カ月を過ごしたとする説も有力である。
本作では、「無罪となって牢を出てから5年」嘉永元年(1848)のある日の朝、金蔵は妻子を置いて、ひとり土佐を出たとする。「洞意(金蔵のこと)はこの文ひとつを置いて旅に出たがです」と妻の叫びには、土佐の男は酒飲んで女房におんぶに抱っこといわれる土佐の女の心意気が込められている。
土佐を出た金蔵がまっすぐ向かったのは、青春真っただ中の3年間を過ごした江戸であった。金蔵は国芳ら歌川一派の浮世絵師が描く歌舞伎の芝居絵、大首絵、絵看板をじっくり見てみてまわる。江戸在住は1年余り。土佐の国を出て消息がぷっつりと消えて4年を経た嘉永4年(1851)、金蔵の姿は讃岐国金毘羅の地にあったが、父専蔵危篤の報を受けた金蔵はあたふたと帰国する。
父親専蔵とは幼少の頃より確執があり、本当の父親は豪商で南画家の仁尾順蔵(仁尾鱗江)はないかと金蔵自身が疑っていたとするストーリー展開は作中の圧巻である。高知城下新市町に〈剃り〉と呼ばれる髪結い職人の子として生まれた金蔵は、この男の手を借りて絵師の世界に羽ばたくことができたのであり、順蔵こそ絵金の謎を解き明かす最重要人物であることを、作家は小説作法を通して解き明かし真実に迫っている。
金蔵が高知に帰国した翌々年の嘉永6年(1853)6月3日、ペリーの率いる黒船四艘浦賀沖に現れ、翌年11月5日には〈寅の大変〉と呼ばれる大地震が土佐を襲う。40代の金蔵は「この先の世が、黒い霧に包まれていくような予感に見奮いする」。さらに、安政の大獄、桜田門外の変。「じわりじわりと、日本の足元が揺らいでいることへの不安」を感じる。
そうした最中、金蔵の「突出して優秀な弟子」である武市半平太が一人の青年を供として引き連れ来訪する。文久2年(1862)の春のことである。
「下級武士や郷士がほとんどですけんど国を変えるのじゃと張り切っちょります」。前年8月 吉村寅太郎、坂本龍馬らとともに江戸で土佐勤王党を結成、党首となっている勤王の志士武市半平太は自信に満ち溢れている。傍らの青年は、のちに、幕末動乱の京都に於いて、半平太の命あるままに血刀を振るい巷間「人斬り」の異名で呼ばれた岡田以蔵である。
幕末の土佐藩においては尊王攘夷運動と公武合体運動が対立し、加えて長宗我部氏の遺臣を武士にあらず郷士とする特殊な身分制度を布いているため、他藩とはことなる複雑な様相を展開した。金蔵の胸中をよぎるのは20年ほど前の「おこぜ組 断獄」である。金蔵と青雲の志を誓い合った仲の桑島辰之助は投獄処刑された。この時点で、半平太は「幕末の四賢侯」のひとりで権謀術数の才能に恵まれた演技者・山内容堂の二重性や恐ろしさを知らない。藩政とは遠い距離にあるが時勢の推移と人間の運命への洞察にすぐれる金蔵は、半平太の過剰な自信と野心に危うさを感じとり、若さゆえの半平太が猛進し足元を掬われることを危惧し、「慎重にな」の一言を半平太に投げかける。
金蔵の予感は現実のものとなる。4月8日 参政吉田東洋 暗殺。藩を挙げての尊王攘夷のために動くことを望む半平太と土佐勤王党にとって、これに反対する東洋は邪魔者以外の何物でもないとしてクーデターを起こすが、一方、己が抜擢した側近中の側近・東洋を殺害された容堂の怒りに思いを致すことを聡明で思慮深い半平太はおこたった。翌年4月、土佐の事情一変、容堂による勤王党への弾圧がはじまり、9月21日、半平太は京で捕縛されて土佐に移送され投獄される。
武市切腹の1カ月前の慶応元年(1865)5月、金蔵は金蔵がかつて投獄されていた、あの城下南会所の牢屋に1年8カ月も入れられている半平太を見舞う。金蔵の在牢は幸い短かったが、それでも、死罪になるのではと死への恐怖におびえた我が身を思い出す。御用絵師の身分を剥奪され、明日の命も分からぬ運命になった金蔵は、死への恐怖におびえ、「この命、助かったなら、一介の町絵師として生きよう」と、あの若き日、金蔵は決心したのであった。
「いつの時にも、絵はそれを描く者の心を伝えるもの」を信条とする絵金は
半平太の切腹の報を受け、「なぜこのような国に……。血で血を洗う出来事は、血をもって浄化するしかない」の思いを籠めてひたすら描くことに徹する。
血の色の毒々しいほどの赤で彩色された金蔵の絵は絵金の血みどろ絵で知られるが、尊攘の暴風の吹き荒れた風雲の時代、人一倍、異変を感じていた金蔵のやり場のない気持ち、強い憤り、苦悶、怒りの発露なのである。
史料的裏付けに乏しい絵金と半平太の関わりなどが、作者の自在な構想力によって見事に造形され、謎多い絵金の生涯に迫っている。本書は高知県出身の作家・藤原緋沙子の作家生活20周年を記念するにふさわしい歴史小説である。
(令和5年7月1日 雨宮由希夫記)
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