書 名 『柔術の遺恨 講道館に消された男 田辺又右衛門口述筆記』
著 者 細川呉港
発行所 敬文舎
発行年月日 2022年6月23日
定 価 ¥2400E
「田辺(たなべ)又右衛門(またえもん)口述筆記」は不遷流(ふせんりゅう)柔術第四世・田辺又右衛門(明治2年(1869)~昭和21年(1946))が晩年、自分の生涯の試合を弟子に口述して記録させていた「柔術一代記」であり、本書は口述筆記を元にその裏に隠れたドラマを再現したノンフィクションである。
田辺又右衛門は、嘉納(かのう)治五郎(じごろう)の講道館(こうどうかん)柔道が江戸時代から伝わった多くの柔術の流派を淘汰してのし上がっていく中で、たったひとり講道館に抵抗し続け、ついには、世の中から抹殺された一人の柔術家である。
又右衛門の時代、柔術は時間制限なしのエンドレスで心行くまで戦う時代であった。したがって、本当の意味での実力勝負だった。格闘技は本来そう言うものであろうが、明治になって講道館柔道の出現により「スポーツ化」の名の下に柔術は多くの技を禁止された。嘉納治五郎の柔道というのは柔術の一部を使ってそれも途中段階だけで成立した精神修養も合わせ目指したスポーツなのである。明治中期から後期にかけて、世の中の流れが柔道に味方し、そのほかの流派(「他流」といった)をすべて排除してしまい、大正8年(1919)にはさまざまな流儀の柔術のすべてが「柔道」という名前に統一される。
黒澤明監督の映画「姿(すがた)三四郎(さんしろう)」(昭和18年3月封切り)のみならず、少年誌で柔道漫画が全盛期であった昭和20、30年代、多くの柔道漫画では常に柔術家は「古くて乱暴で卑劣な柔術と、清く正しい正義の柔道」という同じ構図の中に「悪役」として登場させられ、ストーリー展開がなされていることを少年時代の評者(私)も著者同様に味わい、それを当然と思い疑いもせずに読み耽ったものだが……。本書によって知らされることはまさに目から鱗の連続であった。
「田辺又右衛門口述筆記」には嘉納治五郎が、講道館派が試合で負ける度に、又右衛門の柔術の技を次々に禁止していったこと、又右衛門優勢の試合も講道館の息のかかった審判によって強引に引き分けにされたこと、挙句に審判法が講道館の匙加減で「改正」されたことなどが又右衛門と嘉納との直接のやり取りなどを通じて、生々しく描かれ、柔道創設時のさまざまな隠された歴史を具体的に伝えて、あわせて、現代に通ずる多くの問題を浮かび上がらせている。
著者が又右衛門の末の娘・田辺久子さんが所持していた口述筆記を託されたのは昭和62年(1987)1月のことであるという。当時69歳の久子さんは、初めて会った見ず知らずの著者に総ページ546頁、4冊からなる手書きの口述筆記をある思いを籠めて著者に託した。
又右衛門が死して41年の歳月が経っていた……。
講道館の猛者どもを悉く斥け、一度も敗れたことがなかった、あれほど強かったのに報われなかった父。巧妙なる講道館の嫌がらせ、組織的な排除の中で損得を考えず、武骨に、ひたすら自分の信じる道を歩むべく孤軍奮闘し、そして逝った父。若いころの父たちは、圧倒的な組織力で自分たちに有利な取り決めをする講道館のやり方に歯ぎしりし、嘉納治五郎と講道館の柔道が次第に全国の統一ルールを決めていく中で、何としても自分たちの武道としての柔術を守っていこう、寝技の滅亡、古流柔術の廃滅を阻止しようと、盟友・片岡仙十郎らと共に誓いをたてる。「他流の誓い」である。
娘久子の悲願は父親のほぼ生涯を描いた「口述筆記の公開」であった。この一代記を何とか世に出したいとの娘の、運命に振り回されながらたくましく生きた父への思いに、読者は胸を熱くするであろう。
又右衛門の郷里の倉敷市玉島善昌寺の墓の傍に建てられた顕彰碑には「一代記未刊行」の文字が刻まれているという。それを目の当たりにした著者は久子の生前に果たせなかった思いに思いを重ねると共に、
「世間」という大衆は、必ずしも賢くない。むしろ愚かな場合が多い。この愚かな大衆が、歴史を動かす場合も多いのである。動き出したらなかなか止められないのだ。
と「世間」という大衆の愚かさに怒りを隠さない。
「講道館柔道の創始者・嘉納治五郎は、武術に教育的価値を見出し整備した武道のパイオニアであり、講道館柔道の完成と普及に尽力する一方、他流の技法の保存と伝承に力を入れていた」(ウキペディア)と「世間」では評価されているが、又右衛門という男の存在、生きざまを知ることによって、著者は「人間、嘉納治五郎」の実像、「講道館柔道」の本質に迫り、「嘉納治五郎が最初から柔道のスポーツ化を目指し、青年の精神の鍛錬としての柔道を目指していたかは疑わしい」と断じているのは痛快きわまりない。
隠されていた多くの柔道史の本当の姿が発見されたことを契機に、嘉納による「柔道への統一」が行われた柔道創成期に立ち戻り、柔道が試合のやり方や技をもう一度再考すべきこと、つまり原点に立ち帰って嘉納の都合で、講道館の都合で、消えていった技を考え直してみることが必要なのではないかと著者は提唱している。
現代の柔道の試合は「差し手争い」「組み手争い」ばかりが延々と続き、やがて時間が来てしまう。
又右衛門は現代の柔道の試合の行き詰まり、柔道の限界を早くから予言し、「私は講道館柔道が、結局私どもと同じ柔術に戻らなければいけないことを、堅く信じております」と述べている。柔道が高度な柔術の寝技や絞め技を禁止したことによって、逆に武道として敵と戦う柔術本来の技を排除し自らの技を狭めて行ったことを目の当たりにした又右衛門ならではの確信であった。
柔道界の構造は21世紀に入った今も、嘉納・田辺の時代と変わらないものがあるとの警鐘もある。
近年、柔術が日本で、米国で、かなりの勢いで普及しつつあるという。柔術の復活はよろこばしいことである。
これまで又右衛門について書かれたものはほとんどなく、武術界によほど通じた人を除いては、又右衛門を知る人はいないといってよい現状において、口述筆記の記述は「類例がない記述」であり、口述筆記の発見は講道館神話を根底から覆す「世紀のスクープ」と言える。
著者は20年来、歴史上の名もない人物を見つけて掘り起こす作業を続けている。『草原のラーゲリ』では日本の高等教育を受けた満洲蒙古の一人のモンゴル人を、『舞鶴に散る桜――進駐軍と日系アメリカ情報兵の秘密』では真珠湾に日本軍の攻撃をしけた一人の日系二世を活写している。併せ読みたい。
(令和4年7月1日 雨宮由希夫 記)