書名『黛家の兄弟』
著者 砂原浩太朗
発売 講談社
発行年月日 2022年1月13日
定価 ¥1800E
砂原浩太朗(昭和44年生まれ、兵庫県神戸市出身)は、描きつくされた感のある戦国史を繊細極まる文体で全く新たに描いたデビュー作『いのちがけ 加賀百万石の礎』でデビューした。戦国から幕初・創成期の加賀藩を舞台とした“歴史小説”であったが、二作目『高瀬庄左衛門御留書』は一転して“時代小説”であったことは驚きであった。“歴史小説”も書ければ“時代小説”も書く新たなる天才の登場というべきであろう。
本作は架空の小藩「神山藩」を舞台とした時代小説『高瀬庄左衛門御留書』に引き続く「神山藩シリーズ」の二作目である。『高瀬庄左衛門御留書』の感動から一年にして、前作を上回る作品をものしていることはこれまた驚きである。
神山藩は石高10万石程度の小藩である。第一作では「本家は日の本有数の大藩である、冬には寒さのこたえる土地柄、名物 蟹雑炊、海原が望める」としか描写されていないが、二作目では、「北前船が立ち寄る湊」「真夏を経ても消えぬ雪の冠を被る山なみ」「五層の天守」とある。神山藩の輪郭が次々と明らかになるのも一興である。一作目の『高瀬庄左衛門御留書』には「藩校・日修館」が登場するが、本作では「藩校はない」とある。よって、一作目より時代が遡ることが読み取れる。
また「開幕いらい百五十年を閲している」とあるから、本作の舞台は『高瀬庄左衛門御留書』の時代より50年ほど前の時代の1750年代、将軍家重・家治治世下の宝暦年間と絞り込められる。
物語のスタートは他国にまで知られた藩内の桜の名所・鹿(しか)ノ子堤( こづつみ)での花見。すべてはこの花見からはじまる。
神山藩の筆頭家老黛(まゆずみ)清左衛門(せいざえもん)の三男の黛新三郎(のち黒沢新三郎)17歳は「黛家の三兄弟」(長男栄之丞(えいのじょう)、次男壮十郎(そうじゅうろう))の花見に、峰岸(みねぎし)道場の道場仲間由利圭蔵(ゆりけいぞう)を誘う。そこで、新三郎らは黒沢りくに会う。圭蔵がりくに一目ぼれするのを新三郎は見てしまう。この時、圭蔵はりくが大目付黒沢織部正(おりべのしょう)のひとり娘であることを知らない……。
花見の季節も過ぎ、初夏。「窓から流れ込んでくる風には、すでに噎せかえるような緑の匂いが含まれた、かぐわしくもあったが、近づく梅雨の気配が首筋へまといつくような」と季節の描写が鮮やかであることも前作同様、砂原文学の特色の一つである。
新三郎は父清左衛門から六つ年上の長兄栄之丞が来春、靖姫(やすひめ)と婚儀することを告げられる。靖姫は藩主・山城守(やましろのかみ)正経(まさつね)の次女、18歳である。ついで、父は「そなたは婿入りの話。相手は黒沢のりく殿だ」と告げる。りくは二つ上。新三郎はりくが兄栄之丞に想いを寄せていることを知っている。
武家の嫡男はわき目もふらずに親の決めた相手と添い遂げ、子を生さねばならない。武士の縁組は家と家の結びつきと心得ているから、好き嫌いは意味をなさないことはわかりきっている。好いたの惚れたのという感情は論外、兄も自分も断る道はないと知る新三郎だが、「なぜ小兄上(こあにうえ)でなく、わたしなのか」と父に問わずにはいられない。新三郎が「小兄上」と呼ぶ壮十郎は富田(とだ)流の影山道場(一作目に登場)の高弟で、藩内で知られた剣のつかい手であった。黛家と並ぶ名家のひとつで大目付の要職にある黒沢家には兄壮十郎が相応しいと新三郎は思うが、黒沢家の当主織部正(おりべのしょう)が名指したのは、次男の壮十郎ではなく、三男の新三郎であった。
新三郎は圭蔵に、りくとの祝言、黒沢家への婿入りをあえて直截に告げる。と共に、黛家からの側仕えとして圭蔵を召し抱えたいが如何と尋ねる。りくに心惹かれる圭蔵が今後は新三郎の道場仲間としてではなく家来として新三郎に仕えることになるのだ。圭蔵の心中やいかにと心ある読者は思いはかるであろう。新三郎と圭蔵のこの因縁を伏流水のようにして物語は進行していく。
新三郎と圭蔵は「三男坊で同い年」親しい間柄とはいえ、新三郎は「代々筆頭家老の家柄。三千石の大身」の黛家と、圭蔵は「普請組20石の下士」の由利家では、もともと家格が違いすぎるのである。
武家社会においては、家督は長子相続と定められていたから、武家の次男以下に生まれた者の生きる道などたかがしれていた。次男以下であること自体は武家の誇り、主家の為、御家大事という建前など余計なことを考えずに済む分、便利な道具といえた。彼らの大半はその道具に寄生して生きることができた。「どうせ友(とも)垣(がき)でいられなくなら」とつぶやく圭蔵は寄りかかって生きることを選んだのであろうか。が、新三郎の家臣となった圭蔵はやはり上司が羨ましかった。やがて、抑えきれない敵意が体から溢れ出てくることになる。
藩の政争の嵐が黛家を襲う。次席家老の漆原内記(うるしばらないき)は筆頭家老黛清左衛門と並ぶ神山藩の両輪だが、漆原は筆頭家老の座を虎視眈々と狙っている。内記の娘おりうが藩主の側室となり庶子又次郎をあげる。神山藩の世継は正室の子・右京正就(うきょうまさなり)と決まっているにもかかわらず、藩主が次男又次郎を鍾愛するのに目をとめた内記は自らの外孫たる又次郎の擁立を画策、陰謀をめぐらす。
内記の嫡男伊之助は新三郎の二兄壮十郎と敵対している。ある日、伊之助の挑発に応じた壮十郎は成り行きで伊之助を斬ってしまう。非は壮十郎にあるのだが、内記は我が子を死に追いやった壮十郎が許せない。壮十郎を喧嘩両成敗で切腹するよう、目付の新三郎に迫る。新三郎が黛家の出で壮十郎の弟であることを知った上でである。かくて新三郎は断腸の思いで兄の処断を下す。
本作は二部構成。「第一部 少年」は壮十郎の切腹で幕を下ろす。「第二部 十三年後」、作者は物語の舞台を13年後に移している。大きく時を飛ばしながら、物語は廃嫡された右京正就の死を核として意外な方向へと舵を切っていた。父 は次兄切腹の翌年に世を去っている。筆頭家老の漆原内記に阿り「漆原の走狗」に成り下がった新三郎。父の死を境に長兄との私の付き合いを絶った新三郎……。間隙を大きく空けて話を進められることにより、読者は新三郎の周辺で何が起きたのかとその空隙を埋めたいという心理に駆られる。
抑制された筆運びによってもたらされるこの譬えようもない清涼感、寂寥感は何か。主人公たちの心奥に読者は自らの心底をかさね合わさずにはおれない。
「黛家の兄弟」の登場人物にはそれぞれに物語がある。単なる登場人物ではないのである。女中として黛家に奉公したみや(‥‥)には未練としあわせを。峻厳な人柄の義父黒沢織部正にはほのかな慕情を。ながい刻をともに過ごしてきた圭蔵には因縁の中の嫉妬と焦燥を。漆原内記には孤独と生への執着を。壮十郎との子を育てるおときには矜持と優しさを。そして、妻り(¨)く(¨)には夫婦のことの熱さと温かさを。新三郎にとって彼彼女はおのれをこの世につなぎとめている一人一人なのである。
本作品は「世の理不尽」を主題として人間の孤独や愛を普遍的に描いている。
(令和3年12月30日 雨宮由希夫 記)