書名『果ての海』
著者 花房観音
発売 新潮社
発行年月日 2021年8月30日
定価 ¥1750E
花房観音の最新作『果ての海』は舞台を日本海側のわびしい町、主人公は京都文化圏を故郷とするという、花房作品のエキスを濃厚に取り入れた上に、サスペンスの要素も加わった意欲作である。
物語は鶴野(つるの)圭子(けいこ)46歳が、ある年の10月に、埼玉県川口市内で同居する愛人・糸井(いとい)慎吾(しんご)55歳の死に直面するところから始まる。
圭子には「死ぬか」、「警察に出頭するか」の選択の他に、「逃げるか」というもう一つの選択肢があった。
男運が悪く、不幸なシングルマザー、学歴も資格も才能もなくて、容姿にも自信の無い冴えない女である圭子は慎吾と内縁の関係にあり、娘灯(あか)里(り)と共に川口市内の駅から徒歩10分の慎吾の持ち家に住んでいた。慎吾に妻と3人の子供がいるのは当初からわかっていたことだった。「慎吾のおかげで暮らせているし、娘だって大学に行くことができた。だから、慎吾に嫌われ捨てられてはいけない」と、愛人の言いなりになることで生きてきた中年女であった。
圭子はそんな自分が大嫌いだった。母親としても最低の自分を捨てて、生き直したい。だから逃げた。「逃げる」という選択を選んだのである。
圭子の生まれた場所は若狭湾に面した京都府丹後の宮津市、父の故郷であった。 三歳まで日本海のそばで育った。三歳で両親が離婚したのだ。母の田舎の千葉で祖父母に世話になって育った。父親の輪郭さえ霧の彼方であり、故郷の記憶といえば広い空と青い海であり、海のある場所で暮らしたいと思っている。
逃げるに際し、圭子は整形する。整形して顔は美しくなり、若返り、顔を変えて別人となる。ここに、出会い系のサイトで知り合った元ホストの若くて美しい男・「鈴木太郎」が登場する。鈴木と出逢ったのは事件の半年前というから、桜の季節か。得体の知れない人間の鈴木に圭子は整形を斡旋してもらい、逃亡の手助けを頼んだのだ。
10月の終わり。逃げた先は「関西の奥座敷」といわれる北陸の芦原(あわら)温泉。
事件発生から10日ほどが経っている。その間、圭子は新大久保当たりの安いビジネスホテルにでも潜んでいたのだろうか。娘灯里への連絡はどうしたのだろうか。
整形して顔を変えた圭子は、温泉地でコンパニオンをしている。
圭子は「倉田沙(くらたさ)世(よ) 43歳、東京生まれの東京育ち。若いときに結婚、専業主婦をしていたが、離婚して仕事を探している。バツイチ 子供はいない」との嘘の経歴で、芦原温泉の「花やぎ旅館」の住み込みの仲居となる。
このように「あらすじ」を書き出すと、多くの読者は「松山ホステス殺害事件」の犯人・福田(ふくだ)和子(かずこ)を想起するであろう。和子は犯行後、1997年に逮捕されるまで、美容整形を繰り返しては顔を変え、偽名を使い逃走し、福井市や金沢市などの全国のキャバレーを転々とする生活を送った。
福田和子と圭子の違いは、福田の逃走劇が15年に及んだのに比し、圭子はわずか半年足らずで終わりを告げることである。
仲居の圭子はやがて、「美人」を武器にスカウトされて、コンパニオンとなる。
芦原で、東尋坊でと、ストリッパーのレイラとの出会いがある。圭子は自分と同い年のレイラという踊り子に惹かれる。「芦原の舞姫 雪レイラ嬢」は北陸で唯一残っているストリップ劇場「あわらミュージック劇場」で、女のすべてをさらけ出し、生きていることを見せつけて踊っている。レイラの舞台を見て、多くの人が感動したように圭子も感動する。したたかに生き抜く女の生き方に自分にないものを見出して感動したのだろう。北海道は道東の出身であるというレイラ。ストリッパーになる他に生きる術はなかったのか。互いの生い立ちからつらい体験までが赤裸々に語られることはないが、二人にはなぜかひかれあう運命的なものがあったのだろうか。
レイラも圭子に好意を持ち、親切にしてくれる。越前海岸、永平寺でと、親密になっていく。が、圭子はレイラとの距離が縮まっていくことが怖い。自分は逃亡者であり、追われる身なのだ。いつまで逃げられるかわからないが、このままの生活が続けばいいと思っている。
この世で唯一、「沙世」が「圭子」であることを知っている鈴木が死ぬ。鈴木は鶴野圭子を生き返らせてくれた、かけがえのない存在だった。圭子は鈴木のおかげで「急造の「美人」となり、別人を演じることで、生き直すことができたのである
レイラの他に、登場人物で重要な役割を演じるのは、同じコンパニオンとして働くアカリこと片山聡子である。アカリは娘の灯里と同い年で、同じ名前という奇縁で結ばれている。圭子のコンパニオンとして最初の仕事は「70歳を超えた坊主6人の宴席」で、そのとき、コンビを組んだのがアカリであった。
圭子には一人娘の灯里 23歳がいる。父親のいない子どもとして生まれ、今は逃亡犯の娘である。
心の奥底にあつい人情がある芦原は居心地のいい場所だった。圭子はそんな芦原が好きだったか、どうしても人間関係のしがらみが生じてしまう。芦原に来てから接した人々には訳アリと察して同情するもの、下に見て、優越感に浸るものもいるが、「女を売る女」コンパニオン派遣の会社オーナーの咲村美加、圭子を採用した「上司」でしつこく誘いのLINEを送って来る“雇われ支配人”の和田、のように愛情と見せかけて支配しようとするものもいるのだった。
自分は逃亡者だから、目立たぬように、厄介事に巻き込まれないように生きていくつもりだった圭子は、和田の誘いを断った3月にはすでに「逃げる」ことを決心していた。
逃亡の旅。顔を変えて逃げる殺人事件の容疑者たる圭子は「京都から何処へ行こうか」と思案する。花房文学の起点は京都なのである。さて、「逃げて何処へ行く」。身寄りもなく、戻るべき実家もない。灯里は唯一の身寄りだが灯里を頼って戻れるはずもない。
本書は8章構成。最終章の「8」では、ふたりの「あかり」が“母”を語る。
圭子にとって、結婚もせずに、ひとりで産んで育てた子どもだけは確かな存在だ。娘には何事も知らせずに逃げてきた自分は最低の母親であり、すまないという気持ちはある。逃亡中の圭子は灯里のインスタを検索して灯里はどうしているかと娘の状況を知ろうとする。
一方、灯里は、あの母が、整形して顔を変え、温泉地でコンパニオンをしていたと聞かされて、想像もつかなかった母の姿に思いを致す……。アカリは「倉田沙世」から、「ひとりで生きていける人間になりなさい」と言われたことを思い出している……。
主人公圭子の人間像と、意図せずとも「倉田沙世」に関心が向く登場人物たちの人物造形が秀逸でラストに至るまで目が離せない。
人と人との出会いの面白さ、そして、出会いによる人間関係がもたらすしがらみが、行間から染み出す余韻となってこだまし、ラストまで関わっていく。
鶴野圭子という中年女の数奇な逃走劇を辿ることにより作家が熱い思いを込めて描こうとしているものは、単なる男女の愛憎でも、母と娘の愛憎でもなく、家族とは何かでもない。人間存在の生きるとは何かである。
東尋坊に佇み日本海を見つめる圭子と灯里の心象風景を、作家は次のように描写している。「逃げないといけないのかも。けれど、どこへ。断崖の向こうの深く青い海、この世の果ての美しい海、果ての海」(圭子)、「多くの人の死を呑みこんできた、深く青い海」(灯里)と。果ての海は“情”の海流であり、“故郷”への回路であることがわかる。書名『果ての海』の由来はここにある。
(令和3年9月5日 雨宮由希夫 記)