書評『義士切腹 忠臣蔵の姫 阿久利』
書名『義士切腹 忠臣蔵の姫 阿久利』
著者 佐々木裕一
発売 小学館
発行年月日 2021年4月28日
定価 ¥1600E
“さまざまなる忠臣蔵”がある。家を捨て、故郷を捨て、浪人に身をやつして討ち入りを果たした者たちの「正伝」があり、討ち入りに参加しなかった者たちに焦点を合わせた「異伝」があれば、浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)の後室・瑤泉院(ようぜんいん)、内蔵助の妻リクなどをヒロインとした「女忠臣蔵」もある。一生を瑶泉院に仕え尽くした備後(びんご)国三次(みよし)藩士の落合(おちあい)与左衛門(よざえもん)を陰の主人公とした本書は「女忠臣蔵」のひとつに数えられるだろうが、通り一遍の“忠臣蔵もの”ではない。なぜなら彼は三次から阿久利に従って上京した養育係の家臣であり、四十七士の一人ではないからだ。
本書は2019年12月14日に刊行された『忠臣蔵の姫 阿久利』の続巻である。
前巻では、備後国三次藩5万石藩主の浅野長治の三女として三次で生を享けた阿久利(のちの瑶泉院)4歳が、延宝4年(1676)春、播磨国赤穂藩5万3千石藩主・浅野長矩に嫁ぐべく、三好を旅立ち、江戸赤坂今井谷(いまいだに)の三次浅野家の下屋敷へ召し出されるところから、元禄14年(1701)3月のいわゆる播州赤穂事件によって、鉄砲洲の赤穂藩上屋敷を出て、実家の三次浅野家下屋敷に向かうまでを描いている。
続巻である本巻は、三次藩下屋敷のもどった阿久利29歳が1年10か月後の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)良雄(よしお)らの高家肝煎吉良(きら)上野介(こうずけのすけ)義央(よしなか)邸への討入りを見届け、正徳4年(1714)42歳の波乱の生涯を終えるまでを描いている。
瑤泉院といえば、討ち入り直前に大石良雄が赤坂・南部坂の瑤泉院のもとに赴くという「南部坂雪の別れ」のシーンが有名だが、「南部坂雪の別れ」は事実ではなく、浅野家改易後に大石が瑤泉院に拝謁したのは、討ち入り直前ではなく、討ち入りから1年以上も前の元禄14年(1701)11月14日のことであったという。
では、瑤泉院は浪士たちの吉良邸討ち入り計画をいつ知ったか。前巻を通じての主な登場人物として、落合与左衛門と仙桂尼の二人の存在は欠かせない。なぜなら、阿久利は二人を通して、大石ら義士とかかわりを持ち、接触するからである。
仙桂尼は鉄砲洲の屋敷で仕えてくれていたおだいで、今は増上寺塔頭にて仏に仕えている女僧、しかも将軍綱吉の生母・桂昌院の覚えめでたき者であるがゆえに、阿久利の桂昌院への謁見の設営を何度も任される。
阿久利の胸にあるのは、「御家再興」の四文字。良人長矩から「家臣が命を落とさぬよう」と遺言されている阿久利は、「子と思う家臣たちの寄る辺となる御家を再興せねば、良人は成仏できぬ」と念仏する一方、浪士らの仇討ちを思い止まらせるべく、桂昌院へ御家再興の嘆願をはじめる。
元禄15年2月15日、山科会議。「討ち入りを見送り、御家再興の道を探るという結果は、吉良方を欺くためではないか」と阿久利は落合に問い質す。つぎに、高田郡兵衛が脱盟した。このことから「仇討ちが具体的に進んでいること」を知った阿久利は「仇討ちのことを、どうして教えてくれなかったのです」と落合を叱る。
7月19日、長矩の弟で養嗣子としていた浅野大学の処分が決まる。この瞬間に、阿久利の奔走も虚しく、御家再興の望みは絶たれるが、阿久利は「大石殿が大学殿の処遇を不服として、安兵衛殿と動く恐れがある」と察し、「何としても、止めるのです」と落合に指示する。が、「もはや、止めることはできませぬ」と落合。
7月28日、京都円山の会合で、大石はついに本心を明かす。大石は阿久利の御家再興に奔走する姿をしり目に、初めから吉良を討つと決めていた。
12月9日、磯貝十郎左衛門が大石の落合宛ての手紙を持参して、阿久利を訪ねる。討ち入りが決まったと確信している阿久利はその48人の名の書かれた手紙を見、「止めたくとも、今となっては術がないのか」と手の震えが止まらない。
<忠臣蔵もの>歴史小説は“従来の了解事情”を覆し、“新しい視点”で真実に迫ろうとして今後とも尽きることなく書き繋がれていくであろうが、本書における新しい視点と言えば、討ち入りと吉良上野介の描かれ方も特筆するに値する。
「内匠頭が亡くなって1年と10カ月が過ぎていたこともあり、討ち入りはないものと油断していた吉良家の家臣たちに、戦備えをしている者は誰一人いない」とする背景描写。さらに、吉良上野介の最期のシーンでは、大石に、「『おのれ上野介、遺恨、覚えたるや!』(と叫ばせ、それを耳にした)「上野介は、松の廊下で聞いた内匠頭と同じ言葉に、息を呑んだ」とする。このわずか二行の文章が絶妙である。
浅野内匠頭はなぜ刃傷に及んだか。事件の発端となる肝心かなめのことが謎に包まれているが、本書においても、結局不明のままに止めている。
三次下屋敷に出戻った阿久利に対して養母は、「どうして内匠頭殿を止められなかったのです。仲睦まじいと聞いていましたが、そうであるならば、夫の異変に気付くはず。違いますか」と迫る。
将軍綱吉の佞臣で元禄期の幕政を牛耳ったお側御用人・柳沢(やなぎさわ)吉保(よしやす)は即日切腹を綱吉に進言した張本人である。もともと吉良に贔屓する悪役として存在するというが従来の吉保像だが、「四十六士の命を助けたいなら、仇討ちを命じたと言え」と阿久利を恫喝する吉保が不気味である。吉保と阿久利の問答、駆け引きが面白い。
「内匠頭が刃傷に及んだ理由に、心当たりがあるからではございませぬか。言われては不都合なことが、あったのでは」と吉保の口封じを疑う阿久利に、「そちは内匠頭と仲睦まじかったそうだが、まことであれば、上野介殿を恨む理由を聞いていたはず」と応ずる吉保。吉保ははぐらかしているのか、本当に知らないのか。それとともに、吉保と養母の阿久利への問いが図らずも同じであることが何とも意味深い。
一方、策を弄して阿久利を陥れようとする吉保を「それは上様の思し召しではなかろう」と一喝、叱責して阿久利の窮地を救う桂昌院がいる。「義士切腹」後、阿久利は事件に連座して伊豆大島へ遠島になった赤穂浪士の遺児たちの赦免嘆願に奔走している。その際、頼りとしたのは他ならぬ桂昌院であった。
四十六士や浪士の遺児たちの「赦免」に関して、綱吉が次期将軍家宣(いえのぶ)に「本心」を伝えるシーンがある。綱吉の末期の政治情勢を巧みに抉り出し描いているのであるが、これまた微妙な人物造形といえる。
内匠頭刃傷についての作家の見解は結局、「刃傷に及んだ理由を、言わなかったのは、御公儀に訴えたとしても、釈明にしかとってもらえぬから。釈明が命乞いと取られれば、赤穂浅野の家名に傷が付くと考えたのでは」との仙桂尼の発言に込められているとみるべきなのであろうか。
阿久利が活躍する主な作品をふりかえる。湯川裕光の『瑶(よう)泉院(ぜいいん)』(新潮社 1998年)は題名そのもの瑶泉院が主人公で、瑶泉院は大石内蔵助らを陰になり日なたになって支え一党の討ち入りの絵図を描いているとする大作である。諸田玲子の『おんな泉岳寺』(集英社 2007年)は高輪泉岳寺を舞台とし、夫の運命に翻弄される二人、浅野家の阿久利と吉良家の未亡人富子を対峙させた作品で、しみじみとした人生観照を味わうことができる。諸田玲子の『四十八人目の忠臣』(毎日新聞社 2011年)はかつて瑶泉院に仕えたきよを主人公としている。磯貝十郎左衛門の恋人のきよは、後に6代将軍家宣の側室で7代将軍家継の生母となる月光院であるが、「四十八人目の忠臣」は他ならぬ瑶泉院であるとする作品である。
こうした先行作品と比較して読めば、本書から、柳沢吉保や桂昌院と互角以上に渡り合った阿久利のしたたかかつ健気な生き方が浮かび上がるであろう。
佐々木裕一は1967年、広島県三次市の生まれ。阿久利と同郷出身の佐々木の「忠臣蔵」に対する作家的関心度の深さには並々ならぬものがあったのであろう。亡き夫との約束を守るため、家臣の助命に人生を懸けた悲姫を生身の女性として蘇らせ“忠臣蔵の世界”をさらに味わい深いものにしている。
(令和3年4月26日 雨宮由希夫 記)