戦争と教育/久宗圭一
小島環さんからのリレーエッセイを書かせて戴きます。 小島さんは“教育の大切さ”を示唆されていましたが、「教育」という点で、私には最近気になることがあります。 日本では毎年、夏になると太平洋戦争を回顧し、特に原爆被害を最大の象徴として、だから戦争は良くない、戦争は害悪だ、戦争は二度と起こしてはいけない、と全マスコミが挙って謳い上げ、そして戦争を非難し批判するという大々的な反戦報道を展開します。 無論、戦争は絶対に忌避すべきものであり、戦争にならないよう全力を尽くさなければならないのは当然で全く異論はありません。ただ私が気になるのは、毎年繰り広げられるこの現象が、家が焼かれた、家族が殺された、全ての財産が簒奪されたという、極めて感情的で情緒的に、或は倫理的視点のみに捉えて報じることで終始一貫していることです。
換言すると、殺人をしてはいけない、強盗をしてはいけない、放火をしてはいけない、窃盗をしてはいけない、ということと同一次元の道徳論であり、犯罪論として戦争批判報道をしているように思えます。確かに殺人・強盗・放火といった犯罪は、幼少からの道徳教育によって防げるのは間違いないでしょう。個人個人の人格と倫理観を正しく持てば、抑々犯罪行為に手を染めないはずです。
しかし戦争は、このような個人による犯罪とは全く次元が異なります。戦争は個人間の争いではなく国家間で起きることであり、従い一方のみだけでは発生し得ず、相手があって初めて起きます。つまり、単純に個人の考え方や行動を律するだけでは防ぎきれません。我々が高潔な人格を有し、決して他に戦いを仕掛けないとしても、他者から一方的に戦争行為を行使されることが有り得ます。 言うまでもなく、日本国憲法第九条では戦争放棄を規定していますが、戦争には相手方が居て発生するものである以上、日本がいくら戦争行為を拒絶しても、それだけでは戦争状態、即ち人が大量に殺され、建物・家屋が無差別に破壊されることから逃れられないと思います。
このようなことを起こさせない為には、感情論や道徳論だけではなく、技術論、戦略論も必要です。日本に戦争行為を行使させないような対外的な技術はどうあるべきか、中長期的な国の戦略はどうあるべきか、を現実的、且つ具体的に論じるべきではないかと思います。 寧ろ、感情論は、いつの間にか精神論に昇華しがちで、精神論はついつい狂信的にエスカレートし、戦争反対というアピールが、戦争反対をしない人に「戦争」を仕掛けてしまいかねないとも懸念します。 「戦争は良くない、悪だ」と主張することは皆が容認しても、では戦争をしないために戦争の本質とその回避策の技術論を吟味しようとすると、戦争を是認しているとやや感情的に看做されがちな一部の風潮には、逆にそのような姿勢こそ、却って戦争に突き進んでしまう怖さを感じるのは穿ち過ぎかな、と思う今日この頃です。
それでは橘さんよろしくお願い致します。
著者プロフィール:
久宗圭一
1957年大阪生まれ。京都大学卒業後、三菱商事に勤務し穀物取引及び消費財流通事業に従事してきました。大学以来、京都に深い思い入れを持ち2017年に京都検定1級を取得し、京都産業大学日本文化研究所 上席特別客員研究員に就任。研究テーマは、長年の映画好きが嵩じて日本映画史に造詣を深め、「映画の都・京都 その成立ちと盛衰を辿り未来像を探る」です。2019年退職後は研究活動に専念し、特に時代劇に深掘りして取り組んでおり、中でも東映太秦映画村には常連となって東映の俳優さん何人かと馴染みになっています。