雨宮由希夫

書評『大一揆』

署名「大一揆
著者 平谷(ひらや)美樹(よしき)
発売 株式会社KADOKAWA
発行年月日  2020年3月28日
定価   本体1800円(税別)

大一揆

大一揆

  • 作者:平谷 美樹
  • 発売日: 2020/03/28
  • メディア: 単行本
 

  嘉永6年(1853)の三閉伊(さんへい)一揆(いっき)(いわゆる仙台越訴(おっそ))は陸奥国盛岡藩(南部氏(なんぶし))、20万石)の三閉伊地方(三陸沿岸の野田通(のだどおり)、宮古通(みやこどおり)、大槌通(おおつちとおり))の農民、漁民らが蜂起、先祖伝来の土地を捨て、隣国仙台藩伊達氏領(だてしりょう)へ越境、逃散。年貢米減免などといった単純なものではなく、全領民が一致して藩政改革を要求し、それが実行されたという稀有な一揆、まさしく大一揆であった。

 著者にはすでに、この一揆を主題のひとつとした歴史小説『柳は萌ゆる』(実業之日本社 2018年)がある。『柳は萌ゆる』が維新の動乱に敢然と立ち向かった盛岡藩の若き加判役(家老)・楢山(ならやま)佐渡(さど)(1831~1869)を主人公とし、武士の立場からこの一揆を描いているのに対し、本書はこの一揆で、45人の頭人(とうにん)(指導者)のひとりとして活躍した大槌通(おおつちとおり)栗林村(くりばやしむら)(現釜石市栗林)の三浦命助(めいすけ)(1820~1864)を主人公とし、一揆収束に至るまでを描いた歴史小説である。
 命助は栗林村の肝煎の家に生まれ、荷駄商いを主生業としていた。一揆嘉永6年3月、北方の野田通から始まるが、34歳の命助は当初からの参加者ではなく、「百姓が勝つ一揆をおこさなければ、三閉伊はいつまでも藩の食い物にされ続ける」と一揆衆と距離を置いていた。

 幕末の盛岡藩天明以来度重なる凶作、飢饉に見舞われた上に、蝦夷地警備の役を幕命にて課せられ、藩財政は窮乏。時の藩主南部(なんぶ)利済(としただ)(38代 信濃守)は過重な農民収奪を行った。貧困と重税に不満を爆発させた百姓は頻繁に一揆をおこし、藩はその都度その要求を呑むものの簡単に反故にすることを繰り返していた。天保7年(1836)の盛岡南方一揆(仙台越訴)や弘化4年(1847)の南部三閉伊一揆 (遠野強訴)の苦い経験を踏まえ、過去の失敗の轍を踏まないことを命助は念じていた。
 嘉永6年の一揆衆は「小○」(困る=我々は困っている、の意味)と書いた幟(のぼり)旗を押し立て、三陸海岸筋を南下、日ごとにその数を増し、6月5日に釜石に集合した一揆の人数は約1万6千余人にも達した。命助の姿は大群の動きのなかに没入していて容易には浮かんでこないのだが、作家は、意を決して一揆衆に加わるや、「小本(おもと)の親爺(おどう)」こと弥五兵衛(やごへえ)(遠野強訴の総指揮者)の遺志を継ぎ、野田通の田野畑村の多助(たすけ)(畠山太助)らと共に、一揆成功のために知力の限りを尽くした命助の立つ位置を巧みに描き出している。
 惣代45人の一人になる以前の命助の動きは権之助(けんのすけ)との確執を通じて、活写される。野田通朽木村(くつきむら)の肝煎(きもいり)・権之助は命助を軽んじ新参者扱いとし、時には藩の密偵ではないかとさえ疑い、「おれに命じられたことだけをやっていればいい」と嘯く。
 栗林村の中でさえ第一人者とはいえなかった命助が大槌通の第一人者となり三閉伊一揆の重立頭人(おもだつとうにん)のひとりに一挙に浮上してくるのは、篠倉峠(ささくらとうげ)を越えて仙台領最北の村・唐丹(とうに)(現釜石市唐丹町)に着いた時である。命助は権之助の命令を無視して「我らは、三閉伊を仙台領にしていただきたく存じます」と突如言い出すのである。三閉伊通の百姓を仙台領民として受け入れ、三閉伊通を仙台領か、もしできなければ幕府直轄地にしてほしいとの要求は元々、仙台藩を動かすための口実に過ぎなかったが、領土拡大という餌をぶら下げて、仙台藩を一気に巻き込もうという目論見であった。

 かくして、公儀と仙台藩の関与と監視を引き出すとともに、盛岡藩に対して、在地駐在の役人ではなく、「交渉のできる方」すなわち盛岡藩の正式な交渉役を引き出そうとした。命助が望んだのは民百姓も侍も共に身を削って財政難を乗り切るという考え方を持つ、南部弥六郎(なんぶやろくろう)と楢山佐渡(ならやまさど)であったが、両者とも利済に罷免され謹慎中であった(『柳は萌ゆる』には、謹慎中の楢山佐渡が命助を訪ねるシーンがある)。
 一揆衆の要求には南部利(とし)義(とも)(39代 甲斐守)の復位も要求された。このように、盛岡藩を根本から否定する要求を行いつつ、一揆衆が役人らと膝を交えて盛岡藩の藩政の改革を話し合う場を作り上げようとした命助ら越境した一揆の指導者のとった戦術は巧みであった。彼らは仙台藩に強要されたとはいえ惣代45人を選出し、唐丹村に残留させて、一揆百姓らを帰国させる。命助ら45人の惣代は百数十日の間、仙台領にとどまり、仙台藩を介して、領民の窮状を訴え続けたのである。

 この時期がもっともつらい時期ではなかったか。盛岡藩の正式な交渉役の登場もなく、三閉伊の一揆衆は心を一つにしなければならない時期に、彼らは一枚岩ではなかった。命助は思う。「古の陸奥の国、各地の豪族が一枚岩となれなかったために、中央の攻勢に耐えきれず、滅ぼされてしまった。陸奥の国には何か呪い、為政者が巧妙に陸奥の国の人々の結束を壊す仕掛けでもあるのか」と。この場面は岩手出身の作家平谷美樹の本領がさりげなくにじみ出る感動のシーンである。『火怨』や『炎立つ』など阿弖流為(あてるい)や安倍氏(あべし)、奥州藤原氏らを主人公とした東北のクロニクルを歴史小説としている高橋克彦の小説作法の伝統が脈々と息づいている。

 命助の立つ位置を明らかにさせるべく、作家は「小野新十郎」と「たせ」の二人の人物を造形しているところも読みどころである(「権之助」も想像の人物であろう)。
一揆の指揮者の中には、農民の抵抗に共鳴するだけでなく、一揆に参加する武士らしき姿も見えたという。小野新十郎(おのしんじゅうろう)は盛岡藩の元勘定方で、利済に諫言(かんげん)し疎まれ出奔した武士という造形である。
 一揆衆は数に物を言わせて、村々を騒がせ、各家を廻って強引に一揆衆を増やしていった。男手のない家でも容赦せず、女子供や年寄りまで無理やりに引き込んだ。田野畑村のたせは去年夫を亡くしたばかりの寡婦であり、やむなく一揆に加わり、飯炊き女として45人に付き従う。烏合の衆に堕しがちな一揆衆の姿を冷静に目つめ、時には歯に衣着せずに命助に文句を言う姿は爽やかである。

 物語は10月20日、南部藩が利義の復帰以外の一揆の要求すべてを受け入れ、また一揆指導者一切咎無しの一札を下したところで終わっている。
 11月に帰村した三浦命助は一揆の指導者として断罪されることはなかったが、翌安政元年(1854)7月、村方騒動にまきこまれて出奔するも捕らえられ、文久4年(1864)3月獄死している。悲劇的な死を遂げた命助のその後は本書では語られず、『柳は萌ゆる』にて語られている。
 嘉永6年(1853)といえば、まさしくペリー来航の年。かつて大佛(おさらぎ)次郎(じろう)は『天皇の世紀』第1巻(朝日新聞社 1969年)「黒船渡来」の章に、「ペリー提督の黒船に人の注意が奪われている時期に、東北の一隅で、もしかすると黒船以上に大きな事件が起こっていた」と記している。幕藩体制の崩壊は外圧ばかりでなく、土地に根差した民百姓の地底から湧き上がる力によったことを、平谷美樹の『大一揆』を紐解くことで味わいたい。


            (令和2年4月12日  雨宮由希夫 記)