頼迅庵の歴史エッセイ

頼迅庵の歴史エッセイ10柳生久通のキャリア(4)

10 柳生久通のキャリア(4)


 (承前)
 善左衛門切腹後の佐野家はどうなったでしょうか。
 父佐野伝右衛門、母かよは、須田次郎左衛門にお預けとなります。次郎左衛門は伝右衛門の実弟で須田家へ養子にいった人物です。そのため差控えとなり、当分の間春日佐太郎に預けられることとなりました。佐太郎の妻は、善左衛門の姉です。
 ただし、「営中刃傷記」の次の段に養父佐野伝右衛門(74歳)、養母かよ(78歳)、妻と(・)代(・)(24歳)、伯父佐野主水、下女る(・)勢(・)(20歳)・よし(17歳)、用人安田忠右衛門(62歳)、侍2人、中間4人はお構いなしとあります。
 伯父の主水は、「家譜」によれば、いったん佐野伝次郎の養子になりましたが、病を得て実家に帰っていたようです。
 また、佐野家は家禄500石ですので、これにより500石の旗本の家臣等の構造も分かります。つまり、用人1名、侍2名、中間4名、下女2名ということになります。侍2名が若党と呼ばれる者たちでしょうか。
 500石の軍役は、侍5人、槍持2人、馬口取2人、甲冑持1人、草履取1人、挟箱持1人、小荷駄2人となっていますが、寛永10年のことです。(注1)
 小川恭一氏は、蔵米500俵の家臣(使用人)について述べています(注2)。それによると、用人1人(七両三人扶持)、中小姓2人(一人三両三分)、手廻り5人(一人二両三分)、中間1人(二両一分)、女中4人(一人二両一分)の計13人となっています。だいたい1石=1俵ですので、佐野家の9人は少ない感じですが、これはおそらく、病を得た伯父主水が居たからだと思われます。

 また、伝右衛門とかよは「養父」「養母」と記されています。善左衛門が28歳ですから、逆算するとかよは50歳のときに善左衛門を産んだことになります。いくらなんでも50歳のときの子はあり得ないだろうと思って「家譜」を調べてみたところ、「母は某氏」とありました。養子を思わせるような表現(実は○○の子等)はありませんでしたので、庶腹と考えられます。あるいは、善左衛門の罪を父母に及ぼさないための計らいだったのか……。

 善左衛門は、なぜ田沼意知に刃傷に及んだのでしょうか。善左衛門は口上書を懐中に入れていました。主なものをあげると、まず田沼意知が借りた佐野家の系図を返さなかったということがあげられています。
 田沼家は、野州佐野氏の後裔を称していました。野州佐野氏は藤原秀郷流の名家です。そのためなのか、度々系図を見たいと申し入れていたようです。佐野亀五郎という人物が、やはり系図を見せて小納戸から小姓へと出仕していることを知って貸したのですが、その後催促しても、なかなか返してもらえなかったようです。
 次ぎに、善左衛門の領分の上州甘楽郡西岡村、高井村に佐野大明神という神社がありました。これを意知の指図で、村上勝之進という田沼家の家来が、勝手に田沼大明神と改めて押領したというのです。
 そして、佐野家にある七曜の旗を見て、これは田沼家の定紋だからということで取り上げられてしまったともいいます。
 田沼家の公用人は、善左衛門に対して何の役が空いたといっては、就職運動用の費用を求めたようです。それが620両にも達していたというのです。
さらに、「木下川筋御成」(鷹狩り)の際に善左衛門が射落とした鳥を外の者が射落としたように言上したこと、があげられています。

 佐野善左衛門の家系は、本当に藤原秀郷流佐野家の末裔だったのでしょうか。確かに「家譜」では、「藤原氏 秀郷流」に分類されています。
善左衛門の家系は、5代前の五兵衛政之に遡ります。この人が将軍秀忠に小姓として仕え、廩米300俵を賜り分家したのが始まりです。その後200俵の加増を受け、孫(善左衛門にとっては曾祖父)のときに下野国都賀郡のうちに采地500石に改められています。 その後善左衛門まで記載はありませんので、領地は都賀郡のうちということになります。口上書にある「甘楽郡」と矛盾します。
 佐野政之は、佐野伝右衛門政長の次男で、兄は与八郎政宣とといい、こちらが本家にあたります。家禄700石、後に1,100石。政之、政宣の曾祖父右馬助正安が、始祖となっています。正安は、松平清康(家康の祖父)に仕え三河国大幡を領していたとあります。つまり、善左衛門の家系は、三河佐野氏の家系だったのです。
 この三河佐野氏が秀郷流佐野氏の末裔かというと、実は確たる証拠はありません。家紋も丸に劔木瓜、丸に佐の古文字です。(注3)

 徳川幕府草創期は、系図作りが流行したそうです。戦国時代を通じて成り上がった者たちが、自分の家系を歴史上有名な家や武将の末裔として作ったのです。
わたしは善左衛門の家系もそのような流れで秀郷流佐野氏の末裔を称し、そのことを田沼意知が見破ったのではないかと思っています。
 そのため意知は、善左衛門を軽んじ、さらに田沼家の家臣たちまでにも軽んじられたと思った善左衛門が、巷の田沼父子への悪評もあり、己の矜恃と正義感から刃傷に及んだのではないかと推測します。
 善左衛門の佐野家は、秀郷流佐野氏の末裔かどうかは分かりませんが、三河以来の直参旗本であったことは確かです。紀州吉宗の将軍就任と共に紀州家家臣から幕臣に直った田沼家との家格の差は紛れもないところです。善左衛門には、そのことによる矜恃もあったものと思われます。

 最後に佐野善左衛門政言のキャリアを見てみましょう。


安永2年8月22日:家督相続し、12月22日に将軍家治に拝謁
同  6年2月7日:大番
同 7年6月5日:新番に異動

 事件を起こして切腹したのが28歳のときですから、まだキャリア形成は始まったばかりですので、そう多くの経験はありません。

では、父親の伝右衛門政豊はどうでしょうか。

 寛延元年5月3日:遺跡を継ぎ、11月28日将軍家重に拝謁
 宝暦元年5月3日:大番
 同  4年2月9日:西の丸新番に異動
 同  11年8月3日:(本丸の)新番に異動
 同 12年閏4月28日:番を辞す
 明和8年12月24日:新番に復す
 安永元年11月9日:番を辞す
 同2年8月22日:致仕

 組頭や頭の経験は無く、平の番士で終わっています。祖父伝右衛門政武も小姓組番士で終わっていますので、事件を起こした当時の善左衛門は、父や祖父並びです。
 佐野善左衛門政言の家系は、高祖父伝右衛門政朝は廩米300俵で大番、祖父善左衛門政矩(養子)は大番組頭で采地500石に改められています。善左衛門政言が、父、祖父の通称伝右衛門を名乗らず、曾祖父政矩の通称善左衛門を名乗ったのは偶然ではないと思われます。
 善左衛門政言が、立身出世を願ったのは間違いないでしょう。その欲が田沼家につけいられたのか、あるいは本人の力量が身に過ぎたものだったのか。いずれにしろ、善左衛門政言は、死して神と崇められ、200年経っても名を残しています。以て瞑すべきではないでしょうか。
 そして、創作意欲をかき立てる人物でもあります。
 次回から柳生久通に戻ります。江戸町奉行編です。

 

注1 「三田村鳶魚江戸武家事典」(稲垣史生編、青蛙房
注2 「江戸の旗本事典」(小川恭一、角川文庫)
注3 「姓氏家系大辞典 第2巻」(太田亮、姓氏家系大辞典刊行会)