頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー2
本作は戦国武将と連歌師との関係を書いたものですが、なぜ、戦国武将は連歌をしたのでしょうか。それは連歌の持つ性格にありました。
和歌は、五・七・五・七・七からなる一首を一人で詠みます。これを二つに分けて、上句「五・七・五」と下句「七・七」をそれぞれ別な人が詠むものを「短連歌」といい、ずっと繰り返し続けていくのを連歌といいます。百句詠むのを「百韻」といい、
複数の人間でないと詠めません。そこから分かるように、連歌は一人ではできないのです。ということは、単なる個人事ではなく「コミュニティ形成ツール」になり得るということです。ここに茶の湯とともに連歌が戦国武将に好まれた理由があります。
百韻連歌は、だいたい10人くらいで行いますが、連歌師は、そうした連歌の会を仕切ります。連歌の宗匠ですから、良い句に「点」と呼ばれるしるしやコメントを付け、添削を行う場合もありました。当然、ただというわけにはいきません。それなりの謝礼が発生し、これが連歌師の収入源となります。(第一章)
連歌師の発生は、まず「僧が知的遊戯の一面がある連歌を嗜み、上手となり、連歌師となって」いきました。
そして、「職人として働く場ができ、生活が成り立つようになれば、僧でなかった人が学習して『連歌師』となり、法体になるといった場合も出てくる。宗教家としての性格が薄くなり、連歌の専門性が強くなるのが、次の段階」であり、「連歌を職業とする連歌師が登場する」のです。
連歌で「高収入を得られるとなれば、その職を息子に継がせたいと思うようになる」でしょう。里村紹巴の子孫は、江戸幕府で連歌のことを司ることとなります。役職名は、そのまま「連歌師」で、役料は無く、家禄が100石で世襲です。(第一章)
連歌師は明治の初めの頃には姿を消したようですが、その頃には連歌そのものが廃れていたようです。そういう意味では、連歌は優れて中世後期(室町時代から戦国時代)の文化というべきでしょう。
戦国乱世の時代、武将が生き残るためには、組織力、情報管理、ブレイン、外交、資金力、技術開発(武器等)、戦略(戦術)の7つは、「最低限のチェックポイントであった」ことから、連歌を嗜んだのではないかと作者はいいます。具体的には、以下の6つの効用をあげています。
① 連歌そのものの享楽 → 組織力
② 連歌会で家臣や同輩と連帯感の形成 → 組織力
③ 連歌師から中央や他国の情報収集 → 情報力
④ 連歌師を通じた情報伝達 → 情報力
⑤ 戦勝祈願といった祈祷 → 戦術他
⑥ 古典教養等の学習他 → その他
さらに連歌は、貴人を迎えたときのおもてなし、無事跡継ぎが生まれた祝儀、故人の追善・追悼、安産・病気平癒、戦勝祈願の他忘年会の催しにもなったようです。
連歌は室町時代前半から盛んとなり、飯尾宗祇、宗長、肖柏を経て里村紹巴の頃に最盛期を迎えます。(第二章)
里村紹巴といえば、山城国愛宕山で催した連歌の会(愛宕百韻)が有名です。
そこで明智光秀は、
“ときは今 天(あめ)が下(した)しる 五月かな”
という句を詠みました。天正10年(1582)5月24日のことです。すでに広く人口に膾炙している句で、当日最初に詠まれた句、つまり発句です。
本能寺の変(天正10年6月2日)の直前だったことから。この句が、様々に話題を提供していることは周知の事実です。「とき」を明智の本姓「土岐」に重ね、いよいよ土岐氏が「天が下しる」つまり「天下を下知する」好機の「5月かな」ということで、天下取りの野心があったというものです。
光秀の句は様々解釈されますが、本作では江戸時代の解釈についても触れられています。(第六章)
果たして真相はどうなのでしょうか。来年の大河ドラマで、このシーンがどのようなドラマになっているか、今から楽しみな方も多いのではないでしょうか。
ところで、小説との関係でいうと、岩井三四二氏の『難儀でござる』(光文社時代小説文庫)に収められた「二千人返せ」の主人公宗長が紹介されています。宗長は今川氏親に召し抱えられていて、よく京都と駿府を往復しました。著書『宗長日記』は、その旅の記録で、岩波文庫で読むことが出来ます。
岩井三四二氏といえば、タイトルもズバリ『戦国連歌師』(講談社文庫)という作品もあります。
鎌倉時代は西行に代表される和歌、室町時代は連歌、そして江戸時代は芭蕉に代表される俳句、明治・大正は詩歌、昭和は流行歌、と時代の変遷と共に盛衰を探るのも面白いかもしれません。
最後に岩井三四二氏関係で余談ですが、第10回松本清張賞受賞作『月ノ浦惣庄公事置書』と第14回中山義秀賞受賞作『清佑、ただいま在庄』は、中世を舞台にした傑作だと思います。