頼迅一郎(平野周) 頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー

第3回「『甲陽軍鑑』の悲劇」(ぷねうま舎)

頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー3

「『甲陽軍鑑』の悲劇」(浅野裕一・浅野史拡、ぷねうま舎

『甲陽軍鑑』の悲劇: 闇に葬られた進言の兵書

『甲陽軍鑑』の悲劇: 闇に葬られた進言の兵書

 

 
 本書の副題は「闇に葬られた信玄の兵書」となっています。
 甲陽軍鑑は、信頼できる史料なのかそれとも単なる偽書なのか。従来からアカデミックな歴史学の学会では、偽書とされてきました。そんな現状に一石を投じたいとの思いから著者は、
第一部 『甲陽軍鑑』の兵学思想 ――上方兵学との対比
第二部 『甲陽軍鑑偽書説をめぐる研究史――偽書説はなぜ生まれたか
 の二部構成にしたとのことです。

 『甲陽軍鑑偽書説は、なぜ生まれ、なぜ長く学会等で信じられてきたか。その解明を中心に展開しているのが、第二部です。執筆者は、日本中世史専攻の浅野史拡氏です。
 わたし自身も長く『甲陽軍鑑』は、偽書だと思っていました。というか、思い込まされていました。それほど、歴史研究者の関係書を読むと偽書説が圧倒的だったのです。
第二部は、その『甲陽軍鑑偽書説の発端となった論文の著者田中義成博士から書き起こされます。
 田中博士の論文は、明治24年(1891)『史学会雑誌』に発表された『甲陽軍鑑考』というものです。第二部には、その全文が掲載されています。およそ3ページ強の漢字カナ混じり文です。

 この論文では、『甲陽軍鑑』の作者は、諸説あるが小幡景憲が取りまとめたものであり、山本勘介は山県昌景の一部卒に過ぎなかった等々と結論づけています。
 山本勘介の実在を示す史料は、長らく有りませんでしたが、昭和44年に北海道釧路市で「市川文書」が発見され、山本勘介(菅助)の実在が証明されました。
こうしたことも踏まえ、『甲陽軍鑑』は偽書ではないという立場に立つ浅野史拡氏が、本書の169ページ(『甲陽軍鑑考』全文を含む)を費やして、『甲陽軍鑑偽書説がなぜ生まれ、なぜ長く、広く信じられてきたのかについて持論を展開しておられます。
偽書の発端となった『甲陽軍鑑考』の50倍の長さが、そのまま『甲陽軍鑑』の悲劇の長さに思われてなりません。『甲陽軍鑑』や兵学に興味のある方は、ぜひその目で確かめて、考えてみてはいかがでしょうか。

 さて、話が前後しましたが、第一部は中国哲学者の浅野裕一氏の執筆です。『甲陽軍鑑』の兵学思想、上方兵学との対比と題された第一部ですが、実はたいへん興味深く知的な刺激に満ちた論文といって良いかと思います。
 簡単に紹介すれば、まず日本の兵学は、中国の兵学の影響を受けており、2つの系列に大別できるというのです。一つは「武経七書」、もう一つは「『易』や陰陽五行思想を取り込み、卜筮や観天望気を説く陰陽流兵書」です。
 しかしながら、「中国兵法をそのまま日本に適用しようとしても、うまくいかない」と山本勘介も武田信玄も考えていたといいます。その理由は、中国兵法が「数十万の一般農民を徴募して軍を編成する」ため、「個々の兵士の勇戦に多くを期待することはできず、勝利の鍵はもっぱら敵を欺く詭計に求められる」からです。また、「古代中国の将軍は、文民統制の下に置かれた雇われマダムのような存在」だったことでもあるといいます。この点、古代中国史を囓ると、なるほどなあ、と思うことでしょう。
 対して、日本の兵法は、「中国式の律令体制が崩れ」て、「軍は身分戦士たる武士によって構成され」、「勝敗の帰趨に対し、個人的武勇が占める比重は、中国よりもはるかに大きい」というのです。そこには「自ずと武勇を至上とする生活信条が、武士道として形成されてくる」というのです。
 そして、「日本兵学の典型である甲州兵学の書、『甲陽軍鑑』を貫いているのも、そうした武士の生活意識に根ざし、武勇の発揮をこそ武道の誉れとする思想であった」と結論づけます。

 武田信玄甲州兵学の理念は、「際だった武勇の発揮と、戦いぶりの完璧さとの、攻守・動静両面の基準から成り立って」おり、この立場からすれば、摩利支天のわざである謙信流兵学は、「守・静の側に、大きな欠陥があると言わざるをえない」といいます。
 信玄は、織田信長は、「勝てないと見るや素早く撤退し、情勢が好転した時機を見計らっては侵攻するという、狡猾な用兵により、支配地の拡張に成功」した。その「戦いぶりには粗雑にして不様な点が多いにもかかわらず、ただ領地が広大であるとの理由で、結果的に世間的名声を得たに過ぎない」と非難します。
 そして、上方武士と関東の武士を比較します。上方武士は、守るべき武道の倫理などは最初から存在せず、ひたすら我が身の利益のみを追い求め、その時々の勢力関係のままに右往左往しますが、関東の武士は、戦国の争乱の中にあっても、なお古き美風が維持されているというのです。
 しかしながら、武田家はその上方武士の織田信長に滅ぼされ、天下を統一したのも豊臣秀吉の上方武士の兵法でした。甲州流兵学は意気消沈します。ですが、甲州流兵学が最後に見出した希望の星が、関ヶ原で上方勢を破り、再び天下を統一した徳川家康だったのです。徳川家康は、甲州流兵学の多くを取り入れていました。
 江戸時代を通じて、「甲州流兵学日本兵学の精華として不動の地位を占め、以後長く日本の軍事思想の根幹を規定」し続けます。

 その後、「江戸後期の島津藩に興った薩摩合伝流が、甲州流兵学を排して『孫子』を基本とし、島津斉彬の西欧軍事技術の導入政策と相俟って、物質的基盤を重視する独特の兵学思想を構築し」、異彩を放ち(その成果は戊辰戦争で発揮された)ますが、西南戦争後、「旧長州出身者が陸軍の大半を占めるに及んで、精鋭部隊の勇戦奮闘に勝利の鍵を求める風潮が、再び日本の軍事思想界の主流となる」という指摘は、なかなか興味深いものがあります。

 以上が第一部の概略ですが、甲陽軍鑑を貫く甲州流兵学の理念を上方流の兵学と比較し、最後に甲州流兵学が勝利するという展開は、非常にダイナミックで納得できるところも多々あります。それは、読者をして日本の兵学とは何か、について多くのことを考えさせられることでしょう。

 ところで、最近文庫化された『吹けよ風 呼べよ嵐』(伊東潤祥伝社文庫)は、その武田信玄上杉謙信が北信濃の領土をかけて戦った川中島の戦いを描いています。
主人公は北信濃の国人須田弥一郎満親です。須田氏は北信濃の雄村上義清に属していましたが、度重なる武田の侵攻、真田幸綱の調略によって、同族の親友甚八郎信正と敵対せざるを得なくなります。しかも満親の妻初乃は信正の妹なのです。
 やがて北信濃を負われた村上義清、須田満親達は、越後の上杉謙信を頼ります。義将謙信は、彼らの請いを入れ、川中島武田信玄と戦うこととなります。
 川中島を巡る戦いを縦糸に満親と信正の敵対すれども続く奇妙な友情そして満親と初乃の夫婦愛を横糸に壮烈な戦国の人間ドラマを堪能できます。
 なお、本書で描写される第4回の川中島合戦(5回の戦闘の中で最も熾烈な戦い)については、『戦略で分析する【川中島合戦】』(海上知明原書房)を併せて読むことをお勧めします。より川中島第4次合戦の理解が深まるばかりか、信玄・謙信の驚くばかりの知略戦の全貌が明らかになります。

吹けよ風 呼べよ嵐 (祥伝社文庫)

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川中島合戦:戦略で分析する古戦史

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