6 柳生久通の二人の義父
『武士の人事』によれば、「柳生は、不義を働いた妻を離縁したあと、市ヶ谷の芸者を妾として屋敷に入れていた」ようです。しかし、「その妾は、寛政2年3月に死去し」「仕事熱心ではあったのだろうが、家に帰ってもさほど楽しみもなかったのかもしれない。」と結んでいます。子もありませんので、家庭的には不運だったということになりましょうか。
特技の剣術については、若い頃、西の丸の番士に教授していますが、その後は分かりません。「御城が家より好き」な久通は、今日のワークライフバランスの観点からすれば、逆の意味で興味深い人物のようにも思われます。
ちなみに、「不義を働いた妻」は、安部信満の女か新庄直宥の女か不明ですが、参考までに、『家譜』から二人の義父のキャリアを抜き出すと以下の通りになります。
○ 安部信満(家禄1,000石)
元文元年3月23日:将軍徳川吉宗に拝謁し、宝暦5年9月3日:家督相続
宝暦7年2月11日:小姓組(御番入り)
○ 新庄直宥(家禄700石)
寛保3年8月2日:家督相続し、同9月13日:将軍徳川吉宗に拝謁
延享元年8月9日:小姓組(御番入り)
宝暦元年5月12日:御納戸へ異動し、同11年8月4日:免職(寄合に列しますが、徳川
吉宗の死に伴うもので)同年9月6日:御小納戸に復帰
宝暦13年9月28日:小十人頭(役料1,000石)へ昇進
明和元年9月28日:御目付(役料1,000石)へ異動
5年2月21日:小普請奉行(役料2,000石)に准ず(三河国吉田橋普請のため
小普請奉行格で現地赴任。単身赴任かどうかは不明)
6年11月24日:御作事奉行へ栄転(役料は2.000石ですが、格式が諸大夫のため、
12月18日に従五位下能登守に叙任)
安永3年正月15日:一橋家の家老へ出向
12月24日:大目付(役料3,000石)へ昇進(なお、一橋家老は兼務)
6年正月12日:一橋家の家老を退く
8年9月5日:死亡(55歳)(在職中死亡か)
二人とも御番入りは小姓組ですが、その後のキャリアは大きく異なります。新庄直宥は、勘定奉行、町奉行の経験こそないものの最後は大目付まで勤めていますので、まずまずの役人人生ではないでしょうか。
新庄直宥のキャリアを見ていると、今日の官僚(国家公務員)人生に通じるものを感じてしまうのは私だけでしょうか。
(御番入りとは、旗本、御家人が初めて役職に就くことで、キャリアの振出しということになります。)