頼迅庵の歴史エッセイ

頼迅庵の歴史エッセイ1

1 江戸の北町奉行柳生主膳正久通について

 

 江戸町奉行といえば、真っ先に名前が出てくるのは、大岡越前守忠相、そして遠山左衛門尉景元でしょうか。どちらも小説やドラマでおなじみですね。私は小さい頃、陣出達郎の作品を読んでいるので、どちらかというと「金さん」こと遠山景元の方が好きです。
 次に名前が出てくるのは誰でしょう。多くの人は、根岸肥前守鎮衛ではないでしょうか。『耳袋』という著作も有名ですしね。この3人がベストスリーで、すぐに名前が挙がりますが、では、その次といったら、なかなか名前が出てこないのではないでしょうか。

 私は4番目に柳生主膳正久通を上げます。数年前から興味を持っていて、小説に書きたいと思っている人物です。しばらくは中世と並行して、柳生久通について投稿していきます。
 この人の特徴を一言で表すと「柳生心陰流の達人」ということです。苗字が「柳生」なので当然のことではありますが。ただ、大和国柳生で1万石の大名たる柳生家と血のつながりはありません。

 本姓は村田といいます。徳川家宣に仕えて剣術の相手をした十郎右衛門久辰が、家宣が将軍になるとそのまま仕えて、柳生家当主備前守俊方より与えられて「柳生」を称したのです。正徳2年のことです。この時は300俵の扶持米取りでした。
 この久辰が、久通の曾祖父になります。ですので、久辰の流れを「村田柳生氏」ともいいます。

 祖父播磨守久寿は、徳川家治の剣術の相手をしています。加増されて禄高600石になったのは、この久寿のときです。

 父主水久隆は34歳という若さで亡くなっています。久寿よりも早かったようです。そのため、久通が祖父の遺領を継ぐ形で家督を相続しています。

 久通は西の丸近侍の人達に剣術を指南し、将軍家治の嫡子家基の剣術の相手を務めています。『寛政重修諸家譜』では、家宣や家治の剣術の相手をしたという表現になっていますが、おそらく実態は指南だったのでしょう。貴人ですので、「相手を命じられた」ということになると思われます。

 柳生久通と村田柳生氏の概略は以上の通りです。では、柳生久通とはどんな人だったのでしょうか。
それは次回から、おいおいと――。