雨宮由希夫

再掲・加藤廣先生を送る(弔辞)

加藤廣(ひろし)先生を送る
                   2018.7.23         雨宮由希夫


信長公記』の著者・太田牛一を主人公とした本格歴史ミステリー『信長の棺』で加藤廣先生が作家デビューを果たしたのは、13年前、2005年(平成17年)の初夏のころで、2005年の歴史時代小説、最大の話題作は加藤先生の『信長の棺』でした。何よりも『信長の棺』という書名からしてすでに謎めいています。この衝撃的なタイトルでわかるように消えた信長の遺骸の行方を探りあげることによって信長から秀吉への国盗り物語の謎を解き明かした『信長の棺』は「信長もの」歴史小説の金字塔であります。

 天正10年(1582)6月の本能寺の変において、光秀の娘婿の明智左馬助が数日の間、現場に留まり死去したはずの信長の遺体を徹底して探し続けたが、発見されなかった。その年の10月、秀吉は大徳寺で信長の葬儀を挙行しているが、式場には信長の遺骨不明のまま、遺体亡き棺が安置されていたのでした。

 先生は『信長の棺』の「あとがき」で、「本能寺の変の後、織田信長の遺骸は忽然と、この世から消えた.この一件は《不思議なことに………》で済まされるような問題でも、人物でもあるまいというのが、本作品執筆の動機である」と書かれています。日本史上最大のミステリーといえる事件の真実を突き止めようとする作家の裂帛の気迫に多くの読者が拍手喝采したものです。

 加藤先生には代表作というべき「本能寺」三部作があります。『信長の棺』、『秀吉の足枷』、『明智左馬助の恋』の三作です。


 書評家としての私と先生の出会いは『明智左馬助の恋』でした。

 なんと驚くべきというか、光栄なことに『明智左馬助の恋』の「あとがき」に、『信長の棺』について書いた拙稿の一部が引かれていたのです!!
 私は当時神田神保町三省堂書店に勤務しておりまして、三省堂書店のメール・マガジン「ブック・クーリエ」に「書評」らしきものを書いておりました。『信長の棺』は日本経済新聞に連載され、当時の小泉純一郎総理が愛読書として挙げたことからベストセラーとなりました。不肖私も『信長の棺』のすばらしさに打ち震えたひとりで、その書評というか読後感というか拙い感想を「ブック・クーリエ」に載せましたが、先生はそれをご覧になっていたのでした。

「本来歴史学者がやらなければならない事件の解明を物書きの罪業を背負った新人作家が代わってやってのけた。驚異の新人の旅立ちと、新たな「信長もの」の傑作の誕生に心より拍手喝采したい」と私は書きましたが、先生はその一文を引き、「雨宮某の暖かい言葉には、あやうく涙腺まで切れそうになったことを告白しておきたい」と書いてくださったのです。
「あやうく涙腺まで切れそうになった」のは私の方です。駆け出しの書評家で、実績らしい実績のなかった私にはこれ以上の光栄なことはないと感涙にむせったものです。
今にして思えば、どのようにして私の拙い書評が先生のお目にとまったのかわかりません。先生にお訪ねしそこないました。とまあれ、これを機に先生から「文庫解説」の御指名をいただくようになりました。先生、誠にありがとうございます。

 75歳になんなんとする年齢で作家デビューされた先生は厳しい現実に直面されたと思います。新たに参入する作家には新しい視点と解釈で作品をモノすることが求められるからです。しかし、先生は持ち前の好奇心を発揮され、歴史的な大事件の真実探求に焦点を当てるという手法で、史料的な裏づけの下、歴史の闇と風塵に埋もれた真相に迫り、矢継ぎ早にインパクトのある作品を世に問うて行きます。

 加藤作品を貫くのは、それまでの常識あるいは通説とされている歴史事象を疑い、真実を追究するという独特の歴史観であります。その絶妙な歴史推理の手法で、読者の意表を衝く謎解きの面白さを通じて真相に迫ることで、加藤節というべき独特の歴史小説の世界を造形したのです。

 先生は小説の構想を得たら徹底的に史料を調べる作家でした。
『水軍遙かなり』が執筆される1年ほど前のことでした。ある日、先生から電話があり、「北条水軍と金山を調べに伊豆に行くが、一緒に行かないか」ということでした。なぜかその時、躊躇し結局取材旅行に同行しておりません。なぜお断りしたのかその理由が思い出せません。今なら二つ返事で「はい」と即答したでしょうが。今更ですが、先生、申し訳ありませんでした。

 先生はデビュー以来、およそ12年間に毎年話題作を書かれました。先生はまた恋愛小説や2・26事件など昭和史を背景とした現代小説をお描きになりたいともおっしゃっておられました。先ごろ、直木賞の発表がありましたが、1作ないしは2作は話題とはなるが、すぐに忘れさられてしまう作家より、毎年1作、心に残る作品を上梓された先生こそ「直木賞作家」の名を冠するに相応しいのではないでしょうか。

 毎年、いただいていた年賀状が今年は届きませんでした。何があったのかと気に病んでおりましたが、4月7日に旅立たれるとは思いもかけませんでした。先生、申し訳ありません。もう少し先生と連絡を密にすべきでした。
 もはや先生の、あの加藤節を聞けないと思うと寂しく、残念でなりません。先生、ありがとうございました。安らかにお眠りください。