ひねもすのたり新刊レビュー
vol.1 2018.12.12 菊池仁 記
まず、連載を始めるにあたって時代小説について考えていることを記しておく。
「青春と読書」12月号に松井今朝子のインタビュー記事が掲載されている。最新作『芙蓉の干城』について語ったもので、そのタイトルが実にいい。
<現代に通じる世の理を、歴史の中に探しに行く>
同書は2012年に刊行された『壺中の回廊』の続編ともいうべき作品で、昭和初期を時代背景に、時代の空気が変わっていく様を、得意とする歌舞伎界を舞台として描いたものである。
昭和前期の底流にあったものに新たなアプローチを意図した意欲作で、そのモチーフの核となった志操が、このタイトルに込められている。触発されるものがあった。
少し説明がいる。初めて時代小説を読んだのは、14歳の時、思い切って飛び込んだ近所の貸本屋で借りた柴田錬三郎の『剣は知っていた』であった。主人公の二人は<強権の時代的犠牲者>で共にこの運命に抗するという宿命を背負うことになる。この二人の<運命の受容と反抗>が物語の中心的構造となっていた。要するに、二人の人物造形と物語の構造が、作者独自の<物語的佳境>を創り出していくのである。ラストのカッコ良さに胸が震えるような感動を覚え、世の中にこんな面白いものがあることを知った喜びに浸った。今考えても甘美なひと時であった。これが時代小説に飲み込まれていくきっかけとなった。
つまり、伝奇ものの持つ面白さを知ったことがスタートとなったが、時代小説の面白さは間口が広く、奥行きも深かった。半世紀以上に及ぶ時代小説遍歴は、その奥深さに触れる旅であった。その過程で分かったことがある。
時代小説が読み継がれてきた理由を考えたとき、第一に言えるのは、作品に描かれているのが歴史年表に書かれているようでな過去ではなく、その時代を生きた主人公の生々しい現在であるということだ。この生々しさこそ現代と合わせ鏡となっている。市井人情ものが依拠している世界がこれである。もはや失われてしまった自然や情緒を表出し、人間の根底にあるものに問いかけ、人間とはこういうものかもしれないと仮に答えを出すことなのである。時代は不透明さを増し、重い閉塞感に覆いつくされている。だからこそ市井人情ものの現代的意義があるのだ。ここをきっちり作家も編集者も抑えておくことが肝要である。柳の下にドジョウが二匹三匹的マーケッティングや同質化競争は共倒れの危機を含んでいる。作家と編集者はこの厳然たる現実をしっかり受け止めていかねばならない。
第二は、時代小説を定義すれば「歴史の場を借りて人間の生きざまを描いたもの」となる。この場合、歴史の<場>を借りるという点に重要な意味が含まれている。歴史の<場>を借りることにより、主人公がより自由な舞台を与えられ、ダイナミックな生き方が可能になるからだ。作家側から見れば、既成の枠にとらわれない自由な発想と展開が可能なわけである。
別な表現をすると、権力者によって書かれた歴史を参画できるものとして位置づけ、変革の可能性をはらむものとして、捉えなおせばたらしい物語が出来上がる。ヒーローものに限らず、時代の制約の中で、自由な魂を持った主人公が、理不尽な権力とどう闘ったかに面白さの神髄がある。つまり、こういった主人公を造形することにより、歴史に風穴を開け、権力者が作った歴史とは違う、あったかも知れないもう一つの歴史の可能性を示すことができる。戦国ものが今後も売れ筋ジャンルとして活性していくためにはこういった視点の導入が不可欠と考えている。
もうひとつ重要なことを教わった。1995年に福武文庫の依頼で全八巻の「時代小説ベストアンソロジー」を作った時に、『江戸職業事情』のテーマで二巻を編んだところかなり手ごたえがよかったのだ。そこで<職業小説>というジャンルが成立するのでは思った。要するに、題材の面白さにはいくつかのポイントがあるが、職業のユニークさが今後は注目されると確信した。
江戸時代だけに限っても、現代人の生活感覚では理解できない珍しい役職や職種が存在したし、現在まで連綿と続く職人の技の源流を見出すことができる。もともと本を読む動機は、知らないことを知りたいと思う欲求からだ。要するに、職業は時代を写す鏡であり、そのユニークさをレンズとすることで独自の物語空間と、人生ドラマを印画紙に焼き付けることができる。
現に山本周五郎や池波正太郎、藤沢周平が得意とした市井人情ものの短編には、江戸の情緒、風情、匂いが色濃く立ち込め、時代を駆け抜けていった人々の足音を感じ取ることができる。現代人が好むこれらの要素を活写できる格好のスタイルなのである。
この職業への拘りが起爆剤となって文庫書下ろし時代小説は、90年代後半から出版点数が増大し、ついには単行本の点数を抜くまで成長する。問題は大手手出版社の参入による競合の激化や、新しい書き手は発掘されたものの作品が売れ筋の職業ものに集中するといったことから現在、踊り場に立たされている。
特に、職業ものというのは名ばかりで、職業と主人公の生きざまを交差させ、オリジナル性の高いエピソードが創出するといった原点を忘れた作品となっていることだ。
もっと作品のレベルを上げてこない限り手詰まりになるのは目に見えている。
というわけで初回なのでこちらのスタンスを書かせてもらった。
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現在、時代小説のエースと言えば戦国ものである。それを象徴するような秀作の刊行が続いている。2014年に『私が愛したサムライの娘』で角川春樹小説賞を受賞した鳴神響一が初の戦国ものに挑戦してきた。『斗星、北天にあり』(徳間書店)である。作者は受賞後、作品領域の拡大に精力的に取り組んできており、いずれの作品も水準以上の完成度となっている。それだけに作者が戦国ものをどう料理するか、期待値大であった。戦国ものは類似作品が多いいだけに題材の選定と料理の仕方が決め手となる。簡単に言えば、著名な武将や戦いを新たな視点の導入や、歴史的事実と人物に独自の解釈を施すことでリメイクするか、地方を舞台に出番の少なかった武将を掘り起こすかである。後者の場合は目新しさだけでなく、作品世界に戦国の時代相が克明に描かれているという条件が付く。つまり、作者の作家としてのマーケッティングの質が問われるわけだ。
作者は後者を選択。秋田を舞台に活躍した安東氏にスポットを当ててきた。安東氏は歴史が長いだけに系図的にも複雑で、史料も少ない。学者や郷土史家の独自の研究をしており、書きにくいところもある。そういった難関を見事にクリアーし、事実とフィクションを巧みな形で融合させ、戦国初期の国盗り物語が克明に描かれている。地方を舞台にすることで国盗りにかけた人々の姿がリアルさを持って迫ってくる。
特に、掴みとなる第一章の出来栄えがいい。秋田の礎を築いた安東愛季にスポットを当て、師である名僧に薫陶を受け、その薫陶を栄養素として、武将の魂の在り方を探求していく青年期の描き方に本書の神髄を垣間見ることができる。また商業が発達し、海運を抑えることが領民の豊かさにつながっていくことに気付き、そのための港造りのために戦い活路を開いていくという姿勢を堅持する。こういった着想の非凡さも光っている。各章につけられたタイトルも作者の書く姿勢を象徴しており、物語の持つ印象にうまく機能している。現代の物語作者としての非凡な才能をうかがわせる。
2017年に 『大友二階崩れ』(原題『義と愛』)日経小説大賞を受賞し、着眼点のユニークさと、それを物語に仕立てる筆力に大物感をうかがわせた赤神 諒は、その後立て続けに『大友の聖将』、『大友落月記』と大友三部作を発表。両作品とも従来の大友を描いた作品とは一線を画す内容で、その詳細かつきめ細かい切り込み方と、人物造形の彫り込みのうまさには目を見張らせるものがあった。
そんな作者が『酔象の流儀 朝倉盛衰記』(講談社)でも非凡な筆力を披露している。
朝倉盛衰記という副題が示すように信長に滅ぼされた朝倉義景が題材だが、一筋縄ではいかない作者のことである着眼点が違った。一向宗に敗れ、信長に攻め立てられても朝倉家を一人で支えた武将がいたという物語を引っ提げてきた。これが主人公山崎吉家である。これが本書の味噌といっていい。
なにしろこの吉家の人物造形がうまい。うまいといっても並みのうまさではない。特筆すべきものとなっている。作者は吉家の造形に朝倉将棋の最強の駒である酔象を仕掛けた。この酔象を注入することで造形を膨らませ、独特の人間味を醸し出すという仕掛けが、物語空間に固有の味付けを施す形となっている。つまり、この造形によって物語の進行に厚みと深みが加わり、わくわくするような味を引き出している。作者の小説作法がさらに豊かなものになっていることを示している。
特に感心したのは冒頭の掴みである。信長が吉家の首実検をする場面を冒頭に持ってきている。朝倉といえば信長のどくろ酒のエピソードを思い出すが、それを背景に置くことで緊張感あふれる場面となっている。読者にとっては興味津々な場面で、信長をうならせた吉家を知りたいと思うのは必定。これが導線となって、作者の仕掛けた物語へ入り込むことになる。朝倉は多くの作家が手掛けているが、このアプローチは見事の一言に尽きる。楽しみな作家の登場である。
もう一冊とっておきの戦国ものを紹介する。天野純希の『雑賀のいくさ姫』(講談社)である。作者はここ数年、著名な戦国武将に独自の解釈で造形を施す手法で、旺盛な筆力を示してきた。これは個人の好みとしか言いようがないのだが、2007年に小説すばる新人賞を受賞した『桃山ビート・トライブ』をこよなく愛していた。音と踊りを武器にして権力に立ち向かった若者たちを描いたもので、奇想天外な着想、天衣無縫な筆遣い、波乱万丈のストーリーに酔いしれたことをいまだに覚えている。ここには現代の若者に対する強烈なメッセージが込められていた。権力に反抗するものだけが持ちうるエネルギーが漲っており、それは時代小説だからこそ書けるものであった。
もう一冊すごいに尽きる作品を発表している。2012年に刊行された『風吹く谷の守人』である。詳細は避けるが、無名の人々こそ歴史の担い手として年表の行間から立ち上がってくることを活写していた。エンターテインメントに徹した物語作者としての実力を示した作品で、発表当時、これで行こうよと、思わず呟いてしまったほど感動した。
『雑賀のいくさ姫』を読んで真っ先に思ったのは「これだよ」という一言であった。というのは戦国ものを海洋冒険ものに仕立ててあったからだ。何故なら海洋冒険ものほど手薄なジャンルもないからだ。機会なのでこの点について少し触れておく。
改めて言うまでもないが、日本は四方を海に囲まれ、海が道であった。海の道は生活の道であり、文化の道であった。そこに数限りないドラマが生まれた。いや、生まれたはずだといっておこう。空路と陸路が生活の道となった現代人にとって、海の道を舞台として生まれた数限りないドラマは、記憶のかなたに消え去ってしまった。この記憶のかなたに消え去った海の道を舞台としたドラマを掘り起こすこと、要するに海にこだわり続けた武士や、鎖国だからこそ海外に雄飛する夢を追い続けた人々や、漂流者たちの魂の叫びを蘇らせることこそ時代小説の果たすべき役割と考えている。
ちなみに、主だった作品を列挙しておこう。山本周五郎『風雲海南記』、村上元三『八幡船』、白石一郎『海狼伝』、『海王伝』、『戦鬼たちの海』、南原幹雄『銭五の海』、北方健三『波王の秋』、未完だが隆慶一郎『見知らぬ海へ』などがある。
そこで『雑賀のいくさ姫』だが、舞台は信長が畿内を席券していた戦国末期。雑賀水軍の姫・鶴がこの水軍を率いており、最新の技術を駆使して作られたイスパニアの船を修復して、日本を狙う大海賊と対峙する。それも村上、毛利、大友、島津といった西国大名と連携して一大海戦に挑むというもの。血沸き肉躍るストーリーではないか。
語り手を難波船に乗っていたジョアンとしたのもいいアイデアで、カルチャーショック受けた人間が見た戦国の時代相が、戯画を見るように描かれている。鶴を主人公としたことで、凝った趣向を施したヒーローものとなっているのも特筆すべきだ。それぞれに技を持った脇役の配し方も堂に入っている。さすがこれからの時代小説界を引っ張っていく逸材の作品である。
2017年の歴史時代作家クラブのシリーズ賞を「更紗屋おりん雛形帖」で受賞した篠 綾子が、久々の単行本で本領を発揮した。『青山に在り』(KADOKAWA)で幕末ものを手掛けてきた。清新の気に溢れた青春もので、人物伝記色の強い幕末ものに新風を吹き込んだ。読後が爽やかだ。こういう幕末ものを待っていた。
舞台は譜代大名の川越藩。混迷を深める政局の中で譜代だけに難しいかじ取りに直面しているというのが、物語を覆っているフレームとなってい。主人公である筆頭家老の息子である小河原左京は、学問にも剣術にも抜けた存在で、将来を嘱望されている13歳の少年。ある日、城下の村の道場で自分と瓜二つの農民の少年と出会ったところから、物語は大きく動き出す。
作者は関東を舞台とした作品を多く書いている。本書でも関東に対するいとおしさがベースにあり、それが独自の歴史観となって全編を貫いている。特筆すべきは農兵問題を梃として活用していることだ。それが幕末を見る目線の低さとなって作用し、身分の格差による歪み、軋轢が現実感を伴って迫ってくる。それを止揚としてもがく若者たちの柔らかな生き方を前面に出して描いたことが、得難い味となっている。
特に感心したのは、古典に対する深い造形が興趣を盛り上げる小説作法は、作者が最も得意としてきたものだが、本書ではそれが登場人物の心象風景とうまく溶け合って、絶大な効果を生んでいる。シリーズ物で培ってきた物語作者としてのスキルが磨かれ、成熟しつつあることを示している。
作者の成熟を物語っている最大のものは、父親である左宮の人物造形の深さである。文中に「今、己がいる場所を死所と定めて生きるならば、その道はおのずから正しく尊いものとなる。そこを死所と定めて懸命に生きよ、憂うる暇はない」という言葉が出てくる。これが二人の若者の指針となっていく。どう生きるかと同じようにどう死ぬかは、現代人が失ってしまった心のありようなのである。ここには精神の連続性という重要なテーマがあり、時代小説だからこそ書ける普遍的なメッセージとなっていることも見落としてはならない。閉塞感溢れる現代社会にあって、格差を超えて自分らしくありたいと思う無名な若者たちのための羅針盤とも言える書の登場である。
加えて、左京とお通の初恋貫徹物語を挿入することで、一服の清涼剤として花を添えている。
最後に紹介するのは、稲葉 稔『天下普請』(双葉社)である。作者は1994年から文庫書下ろし時代時代小説を手掛けており、マーケット拡大と充実を牽引してきた大ベテランである。特に剣豪ものは鳥羽 亮、牧 秀彦とともに抜きんでた存在で、剣戟場面のうまさは定評がある。個人的にはあとがきが面白く、あとがきのファンである。そんな作者が単行本、なおかつ大好物の工事もので勝負に出てきた。数多いシリーズものを熟してきただけあって着眼のうまさに舌を巻いた。
「いまある天守は壊せ。造り替えじゃ。」と言ったのは、父家康の遺した慶長天守を否定し、新たな権威の象徴造りを急ぐ二代将軍秀忠である。この一言が物語の発端で、期待を一身に背負った鈴木長次の出番となる。長次は豪胆な侍であると同時に一流の大工でもある。長次は一世一代の大勝負に出る。これが元和天守であるが、思わぬ運命が待ち受けていた。
作者はこの歴史秘話にスポットを当て、天守が出来上がるまでと、運命を手慣れた筆さばきで描いている。妻お栄との交情が物語に温かみを与え、すがすがしい読後感につながっていく。これこそベテランの味だ。加えて、天守造りの技が丁寧に描かれており、興趣を一段と盛り上げている。
今年は押し詰まってから力作が次々と登場した。気に入った作品を列挙しておく。
今村翔吾『童の神』(角川春樹事務所)、澤田瞳子『龍華記』(角川書店)、平谷美樹『柳は萌ゆる』(実業之日本社)、小嵐九八郎『蕪村 己が身の闇より吼えて』(講談社)、冲方丁『麒麟児』(角川書店)。
ぜひ手に取ってみてください。
(記事をこちらに移転しました)