江戸時代前期から中期にかけて活躍した儒学者・太宰春台が生まれた日です。
延宝8年(1680年)9月14日のことでした。
信濃国飯田藩の藩士太宰言辰(のぶとき)の次男として生まれた春台は、9歳の時に父が職を失い、江戸に移住します。
15歳で但馬出石藩(たじまいずし)に仕官しましたが、母の病気を理由に許可を得ないまま致仕したため、藩主松平忠徳の逆鱗に触れ、10年間の他藩への仕官が禁止されてしまいました。
他藩への仕官が禁止されている10年の間、京都・大坂・丹波などに遊学した春台は、正徳元年(1711年)、32歳のときに江戸へ戻り、下総生実藩(おゆみ。千葉県)に仕えました。
この頃、朱子学者中野撝謙(なかのぎけん)門下の旧友安藤東野(あんどうとうや)の勧めで荻生徂徠(おぎゅうそらい)に師事、朱子学から離れ、古文辞学に転向しています。
のち、詩文の服部南郭(はっとりなんかく)とともに、経義(経学、経世論)の春台として、「蘐園(けんえん。蘐園学派)の両雄」と謳われました。
仕官から5年後に生実藩を致仕し、その後は官途に就かず、私塾紫芝園を経営し、後進の育成に専念します。
春台は、師である徂徠の説を継承しながら、独自の経世論を進化発展させていき、江戸時代後期に活躍した儒学者・経世家の海保青陵(かいほせいりょう)に影響を与えました。
主な著書に、『聖学問答』『経済録』『詩論』『独語』『紫芝園漫筆』『産語』『弁道書』『論語古訓外伝』『老子特解』などがありますが、特に、『重刻古文孝経』は日本全国に普及し、版を重ねたばかりか、中国の清朝でも翻刻されています。
延享4年5月30日(1747年7月7日)、68歳で亡くなった春台は、本人の遺言に従った門人たちによって、江戸谷中天眼寺に儒礼によって手厚く葬られました。
[平成30年(2018)11月5日]掲載