雨宮由希夫

書評『龍華記』

書名『龍華記』
著者 澤田瞳子
発売 KADOKAWA
発行年月日  2018年9月28日 
定価  本体1700円+税 

龍華記

龍華記

 

 

「南都炎上」。治承4年(1180)12月29日、反平家の動きを見せる南都東大寺(とうだいじ)と興福寺(こうふくじ)の衆徒を押さえるべく、平清盛の命により平重衡(たいらのしげひら)(清盛の五男)の軍は南都奈良に攻め入って、両寺を焼打ちした。東大寺大仏殿の楼上には逃げ惑う修学僧、稚児、女童らが阿鼻地獄さながら炎につつまれて焼死。東大寺大仏殿は焼け落ち、本尊毘盧(びる)遮那(しゃな)仏いわゆる「奈良の大仏様」の首は無惨にも焼け落ちた。興福寺の被害はさらに甚大で、堂塔伽藍が灰燼に帰した。
 世界遺産に登録されている興福寺の中金堂(ちゅうこんどう)が、享保2年(1717)に火災で焼失してから今年、約300年ぶりに天平の伽藍を見据えて再建された。本書は「興福寺中金堂再建落慶記念」として、澤田(さわだ)瞳子(とうこ)により執筆された歴史小説である。
 興福寺藤原氏の氏寺であり、「御寺」といえば「興福寺」を示す天下の大寺であり、摂関家の権勢の象徴でもあった。本書は栄華を極める平家に陰りが生じる平安末期を時代背景とし、興福寺を舞台として「南都炎上」を物語の中核に据えて編まれた歴史小説である。興福寺猿沢池には竜神が棲むという伝説がある。書名の由来はその伝説にちなんだものであろうか。


 主人公は興福寺の悪僧範(はん)長(ちょう)で、信(しん)円(えん)、運慶(うんけい)のふたりが範長の周囲を彩る。
 範長は保元の乱で敗死した悪(あく)佐府(さふ)頼長(よりなが)の子。悪僧(僧兵)として南都興福寺に身を置いている。このころの悪というのは強いという意味で、善悪の悪ではない。
 信円は忠道(頼長の兄)の四男、つまり範長の従弟で、興福寺の学侶(がくりょ)(学問に従事する僧侶)。保元の乱後、範長に代わる男児として興福寺を担うため南都に送られた男である。つまり、保元の乱の敗者側にあった範長は次期院主の座から遠ざけられた。世が世であれば興福寺を担い導いていたのは信円ではなく範長のはずであったのである。摂関家という高貴な出自でありながら、方や、一介の悪僧にすぎない落魄者、方や、今を時めく興福寺別当。天と地ほどに異なる従兄弟ふたりの境涯の違いが物語をリードしていくそのあざとさに、読者は片時も目を離せないであろう。
 清盛が南都悪僧の鎮圧に躍起になっている最中、信円は大和(やまと)国検非違使(けびいし)別当(べっとう)を受け入れ、平家の支配に降ろうとしていた。一方、範長は都からやって来るという検非違使別当に危惧を抱き、検非違使の南都入りを阻止すべく、仲間の僧兵たちとともに、般若坂(はんにゃざか)へ向かう。南都悪僧と検非違使らとの小競り合いが思わぬ乱戦となる。この般若坂の戦いで、検非違使別当妹尾兼房を殺められ、別当ら数十名の首を猿沢の池のほとりに晒されて、怒り心頭に発した清盛はついに南都攻めを決意する。
 もし、自分が妹尾兼房に薙刀を振るいさえしなければ、……。あのおぞましい大火を南都に呼び込んだのは他ならぬ我が身であると後悔する範長は、ある日、公子なる女と出会う。藤原公光の娘ながら、平重衡の養女となっていた公子は、「養父重衡が南都に火を放ち、天下の社寺や無数の道俗を焼き殺した罪は許しがたきもの、ならばせめて娘として、少しなりともその罪を償わん」と、般若坂の孤児に手を差し伸べていた。

 南都焼打ちの罪を忘れるために、焼打ちで孤児となった般若坂の子らの面倒に邁進する範長であったが、公子と出会い、公子の素性を知った範長は、「もしや我が身が真になすべきは平家の罪に戦くこの娘の救済では」と平家の女たる公子を庇護しようとする。
 もう一人のサブ主人公の運慶は仏師、仏工。範長らが平家を挑発さえせねば、御寺は焼き払われずに済んだと思っている運慶ではあるが、焼かれた仏像の修復に奔走しつつ、曇りのない目で範長を見つめている。範長には、己の腕の身を恃みに生きる運慶があまりにまぶしく、自らとは遠く隔った男と映るが、二人はやがて互いが深い友情で結ばれていることを思い知る。


 平家滅亡。南都炎上から5年、栄華を極めた平家は滅び、この国を見舞った激動の時代は去ったかに思えたが、範長は己の犯した罪の大きさをまだ知らなかった。平家が南都を火の海にしたことが、復讐の連鎖を生もうとしていることを。
平家滅亡が告げられたその日、公子をはじめ般若坂の孤児たちが無惨な死を遂げるのだ。すべての恩讐を越えてただ誰かを救わんとする公子の願いははかなく消える。公子らを殺すよう命じたのは、他ならぬ信円であった。範長が平家の女をかばうのにはよくよくの覚悟と理由があったのだが、別当として、まさに寝食を忘れて興福寺の復興の采配を振るっている信円は聞く耳を持たず、問答無用に、信円は処断してしまう。
 一の谷の戦いで武運拙く義経(よしつね)軍に敗れ捕らえられて、鎌倉に送られていた重衡(しげひら)を、信円は、さらにまた、利用しようとする。

 悲惨な滅び方をした平家に向けられる人々の哀れみは、焼打ちされた興福寺へのそれを上回りものがあった。そうした民情の変化は興福寺復興の妨げになると判断した信円は、重衡を南都の手で断罪しようと、重衡引き渡しを鎌倉の頼(より)朝(とも)に要求。加えて、範長を重衡処罰に相応しい人物と決めつけ、範長に重衡を斬らせようとする。
 一方、範長は、南都焼討ちの罪に問われ「仏敵」として処刑される運命にあった重衡を救いだそうと画策して、重衡に近づく。
 が、自ら死を希求した敗軍の将の懊悩を知った範長は、治承5年(1181)6月23日、奈良の木津のほとりで重衡を斬らざるを得ない……。


 源平合戦を描いた歴史小説は多いが、源平合戦を南都の悪僧の視点で描きつくした〈源平もの〉歴史小説はこれまでにあったろうか。本書で扱われているのは南都焼打ち前後から平家の滅亡、鎌倉幕府の成立までのわずか数年だが、この数年間の変転極まりない時勢を、激しい修羅の季節を生きた範長の半生に重ね合わせている。幼くして興福寺に入れられて以来40年、範長の身の上はすべて保元の乱に始まる世の動乱と共にあったのである。
 治承・寿永の内乱は日本史上経験したことのない空前の内乱であった。
源平時代の人々の死が、現代人である私たちの死と大きな違いがあったわけではない。死はいつの時代でも同じである。が、一つの時代の終焉と激動変革の時代に生きざるを得ない人の愚かさと醜さと愛おしさがあの時代には充満している。ただ生が違っていたという他ない。


 評者(わたし)は本書を「澤田本・平家物語」の一巻として読んだ。これからますます「澤田平家」の巻数が増えていくことを期待したい。
          (平成30年11月14日 雨宮由希夫 記)