今日、9月7日は――
軍学者の由井正雪(ゆいしょうせつ)、槍の達人・丸橋忠弥(まるばしちゅうや)らが計画した幕府転覆の陰謀が露見した日です。
慶安4年7月23日(1651年)の夜のことでした。
由比正雪の乱とも呼ばれるこの事件は、江戸幕府三代将軍徳川家光が武断政治を布いたため、減封・改易された大名に仕えていた武士が奉公先を失い、牢人(浪人)と化し、諸国にあふれかえったことが主な要因となっています。
元和偃武(げんなえんぶ。偃武とは武器を伏せ、武力を用いないこと)により、再仕官の道をほとんど閉ざされてしまった牢人たちはこの施策に不満を覚え、盗賊に身をやつしたり、ゆすりを働くなど、全国的に治安悪化が続いていました。
そのような社会不安の中、家光が逝去し、幼くして将軍を継承した家綱の集権力の弱さをついて、幕府転覆と牢人救済を狙った正雪が蜂起しようと画策したのです。
正雪の立てた計画は、忠弥が塩硝蔵(えんしょうぐら)に火を放つとともに、上水道に毒を投じ、この混乱に乗じて、幕臣を討ち取り、さらには家綱を拉致。
同時に、京都と大坂でも仲間が反乱を起こす、というものでした。
しかし、一党の奥村八左衛門の裏切りにより、正雪は駿府町奉行の捕り手に囲まれて自害。忠弥は江戸で捕縛され、事件は未然に防がれたのでした。
[平成30年(2018)9月7日]掲載