その日、なにが起こったか? 今日の歴史的な出来事

9月6日
今日の歴史的事件
「仮名手本忠臣蔵」初興行

「仮名手本忠臣蔵」初興行




 今日、9月6日は――

 大坂竹本座で、人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」、通称「忠臣蔵」の初演の幕が開けた日です。
 寛延元年8月14日(1748年)のことでした。

 二代竹田出雲(たけだいずも)、助手の三好松洛(みよししょうらく)・並木千柳(なみきせんりゅう。宗輔 そうすけ)の3人によって作られた「仮名手本忠臣蔵」は、赤穂事件に材を取った内容で、元禄以降に書かれた戯曲の代表作となりました。
 近松門左衛門の「碁盤太平記(ごばんたいへいき)」や、前年に京都中村粂太郎座で興行のあった、初代沢村宗十郎の名演で評判を博した「大矢数四十七本(おおやかずしじゅうしちほん)」などの先行作品を参考にしたものです。
 時代背景を「太平記」の頃に置き換え、全11段で構成されており、この人形浄瑠璃をもとにした歌舞伎も演じられています。

 不入りの時でも興行すれば、必ず景気を挽回するため、起死回生の特効薬「独参湯(どくじんとう)」と呼ばれたほどの人気作で、「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)」とともに時代物の人形浄瑠璃全盛期の三大傑作と称されています。


赤穂事件って?

 元禄15年12月14日(1703年1月30日)の深更、播州旧赤穂藩浅野家家老大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)が率いる、旧赤穂藩出身の浪士46名が、江戸本所松坂町(現在の墨田区両国三丁目)の高家肝煎(こうけきもいり)の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)の邸内に討ち入り、義央の首級をとり、主君浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の恨みを晴らした事件です。

 前年の3月14日(1701年4月21日)、勅使饗応(ちょくしきょうおう)の最終日、江戸城本丸御殿の松之大廊下で、御馳走役の内匠頭が突如乱心、吉良に斬りつけた刃傷事件が発端となりました。
 その場に居合わせた留守居番の梶川与惣兵衛頼照(かじかわよそべいよりてる)が内匠頭を取り押さえたため、吉良は顔と背中に傷を負っただけで済みましたが、この殿中での事件に、時の将軍五代徳川綱吉が激怒。
 即日、内匠頭に切腹を命じ、浅野家を御取り潰しとしたのです。
 ところが、一方の吉良は御咎めなしだったため、赤穂藩士に不満を抱かせてしまい、この裁決がのちの赤穂事件の引き金となってしまいました。
 内匠頭がなぜ吉良に斬りかかったのかは、事件から300年以上経った今でも諸説紛々としています。


   


[平成30年(2018)9月6日]掲載