雨宮由希夫

書評『龍が哭く』

書名 『龍が哭く』
著者名 秋山香乃
発売  PHP研究所
発行年月日  2017年6月1日
定価  ¥2100E

龍が哭(な)く

龍が哭(な)く

 

 
 悲運の傑物・河井継之助を描いた司馬遼太郎の『峠』は1966年11月から68年5月までの約1年半、「毎日新聞」に連載された。あれからほぼ半世紀、同じく河井継之助を秋山香乃が『龍が哭く』として描きつくした。本作は2015年2月から本年3月までの2年にわたり、「新潟日報」他10紙に連載された。

 司馬は「侍とは何か」ということを考えてみたいために『峠』を書いたと述べているが、秋山は本書で何を語ろうとしているのか興味を持ってページを括った。
 生きていた時代でさえ、河井の人物評価は割れていたという。河井の死後、その墓碑は何者かによって打ち砕かれたこともあったという。

 河井継之助(1827~1868)は長岡藩筆頭家老で、戊辰戦争(北越戦争)でわずか7万4千石の小藩・長岡藩を「一藩中立の道」に導こうとするが、新政府軍との談判で受け入れられず、結局、奥羽列藩同盟への加盟を決め、新政府軍と戦うことになり、揚句、長岡は焦土になる。
 今日、長岡駅を降り立つと、そこは徳川譜代の名門牧野氏の居城長岡城本丸跡であると知る。つまり、明治政府は城跡に駅を敷設させたため、長岡城の遺構は失われ影も形もない。
 継之助は何も得るところもない戦いに、長岡藩士のすべてを投入して敗れ、長岡は壊滅的な打撃を蒙り、おまけに継之助本人は中途戦死して、後世への功績などというものはあとかたもない、思想と行動の矛盾した人物とみる皮相な見方もあろう。

 等身大の継之助を描きたい、と言う秋山は、「これまでにない難しい時代がやってくる。長岡の士なら牧野家に仕えることだ。だから俺は長岡を守る。それは俺が士だからだ」と覚悟し、長岡藩を富ますべく、松山藩儒学者山田方谷の下、藩政改革の極意を学ぶ継之助をまずクローズアップさせる。結果的に継之助は長岡藩を護れず、彼自身も滅んでしまうが。
 戊辰戦争の勃発に際して、継之助が戦そのものを「正当なる理由なき戦いは私闘なり」と看破し、恭順の道と主戦の道を睨みつけ、「恭順の先に待つものは何か。薩長への隷属を強いられた上で、大義なき戦の先鋒にさせられる未来だ。そうまでして生きのびて誇りを持って進めるか」と語るシーンはまさに核心である。
 歴史上の人物を描く際、どの視点から描くか、関係した人物の誰を中心として描くかで、その人物像が変わってくるのは否めない。司馬遼太郎の『峠』が福沢諭吉や福地源一郎という幕臣を継之助の重要な局面で登場させているに対し、本書『龍が哭く』では、仙台藩士の細谷十太夫会津藩士の秋月悌次郎が大きな役割を果たしている。細谷十太夫仙台藩の偵察方(隠密)であったが、衝撃隊を組織し、白河から仙台までの戦場を神出鬼没に現れては新政府軍を翻弄し、「からす組」と恐れられた。本書では、とりわけ、十太夫は継之助の盟友として活躍させている。これが作家秋山の創作であるかどうかは知らないが、局地戦としての北越戦争を全体的な東北戊辰戦争の中に位置づけるに寄与している。

 人生には運命の出会いがあれば、運命の別れもある。長崎で出会った上野彦馬(日本における写真術の開祖のひとり)や松本良順(医学所頭取、初代の陸軍軍医総監)、また、出会いこそなかったが小栗上野介忠順や西郷隆盛など、維新前夜の日本のさまざまな人物の輪郭と軌跡が透明感あふれる筆致で描かれている。
「大戯けか、英雄か」夫の真実が知りたいと思う継之助の妻すが子の生きざまや、山田方谷との”師弟愛”が描かれているのも本書の読みどころであるが、河井は常に河井であり続けた継之助がいる。
 そしてなにより、動乱の時代の錯綜した精神の中にあって、「幕府は滅びるなどとしたり顔で申すより、最後の一手まであがき、未来を我らで変えよう」と首尾一貫して天命に挑み続けるべく生きた河井継之助の像がいい。これぞ、等身大の人間像であろう。
 今年度上半期を飾る佳品である。
       (平成29年6月6日)