書名『日本統治下台湾の「国語」普及運動――国語講習所の成立とその影響』
著者 藤森智子
発売 慶応義塾大学出版会
発行年月日 2016年2月25日
定価 ¥7000E
台湾および台湾人にとって「国語」とは何かを略述したい。
1895(明治28、光緒21)年、日清戦争の勝利によって台湾を割譲した台湾総督府は、台湾領有早々から、同化政策を標榜する伊沢修二を学務部長に任命し、初等教育を中心に近代学校教育制度の導入を創始し、「国語(こくご)」(日本語)を教授用語とし、かつ「国語」の習得が台湾住民の日本人への「同化」の重要な手段と位置付けられ、やがて日本語は台湾の公用語とされた。
台湾土着の言語には、漢族系の閩南語(狭義の台湾語。福佬語とも)、客家語、台湾先住民の諸言語が母語としてあった(今もある)。日本統治末期には朝鮮の国語普及率が35% であったに比し、台湾のそれは80%近くに達したとされるが、台湾社会においてはこれらの母語と「国語」(日本語)の「二言語併用」生活がなされたが、多くの台湾人にとって、日本語は生活用語とはならなかった。
日本統治下の台湾社会における「国語」概念は、日本統治時期にもたらされ社会に浸透した共通語概念である。そのため、戦後、国民党による標準漢語(北京語。普通話とも)という2回目の「国語(クオユィ)」が比較的スムーズに導入されたと言われる。
本書副題に見られる「国語講習所」とは公学校に通えない、つまり正規の学校教育を受けられない多くの漢族系住民に対し、「国語」をはじめとする教育を行い、「日本精神」を涵養するという理念・目的のもとに、台湾総督府が1930年代初期から設置された社会教育施設である。
本書において著者は、台湾総督府の「日本精神を涵養する」という国語普及政策の内容と、それが台湾民衆のレベルでどのように受け止められたかその影響と意味を考察し、「国語講習所」の政策および国語普及運動が台湾社会に与えた影響を明らかにすることを解明しようとしている。
「国語講習所」は公学校教育と並ぶ、日本統治下台湾における国語普及の柱であるにもかかわらず、これまでの研究議論の中心は公学校教育にあり、「国語講習所」を中心とした社会教育はいまだ研究が進んでいない領域であるという。
1996年秋から2000年末まで4年近く、著者は20代前半の歳月を台北で過ごしている。1996(平成8)年といえば、住民による総統直接選挙で李登輝が選出され、民主化の潮流のもと「李登輝時代」が着実に進行していた時である。
「国語講習所」教育の実際はどうであったのかという疑問を持った著者は台北在住の元教員や地方の農村の農民などと面談し、「国語講習所」教育の実際を聞くことから始めている。
本書は2部構成。第1部では、国語普及、国語常用政策の成立と展開が検討され、第2部では、「国語講習所」教育の事例を取り上げられている。
台北市近郊の閩南人が居住する街、北部閩南人農村地域、北部客家人農村地域、南部離島における閩南人の居住する地域、の4カ所の聞き取り調査による研究の部分は、本書の白眉である。
どのような人々がなぜ「国語講習所」に通ったのか。
「国語講習所」の生徒は女性、養女、長男でない男性、経済的に恵まれない貧困者、公学校のない「僻地」に住む人などで、これらを著者は「社会的に周縁化された人々」と総称している。面談したほとんどの人が当時受けた教育に対し、肯定的であったという。
私事にかまけることになるが、台湾の丈母(妻の母)のことを記したい。
1922(大正11、民国11)年、台北の西・蘆州に生まれた彼女は「媳婦仔(シンブア)」として、蘆州の隣村、三重の岳父に嫁ぎ、6人の子をなし、馬車馬のように働き、23歳で、光復(日本の敗戦)を迎えている。「媳婦仔」とは10代にもならないような少女が、他家に養女に取られ、最初は家事手伝いとして奉公する児童婚姻という台湾の伝統的な農業社会の旧習であった。日本統治下で生まれ育った母が――彼女は国語(北京語)が話せない。話せるのは閩南語のみ――片言の日本語で「(講習所には)夜に行った。ラジオ放送を聴いた。日本の歌をたくさん習った。愉しかったよ」と語り、「夕焼け小焼け」の童謡を歌ってくれたことがあった。農村の婦女子に教育などもってのほかとする伝統的な台湾社会の父権制度の中で、彼女が自らの運命を決定する自由をほとんど持ち得なかっただけに、またその前にも、その後にも、教育を受ける機会を与えられなかっただけに、「国語講習所」に通ったことは数少ない愉しい思い出として丈母の中に生きているのだろう。
1937(昭和12、民国26)年、北京で盧溝橋事件が勃発するや、台湾総督府は皇民化政策にともなう台湾人の「日本人への同化」をめざしたが、実際には「国語講習所」に通う台湾人にとって、「国語」は近代的知識の吸収手段として認識され、「社会教育」の実利を得ることをも目的としたものでもあった、と著者は指摘している。
著者は日本の植民地支配における「同化」を重層的にとらえる観点によって、こうした歴史の事実を名もなき庶民の側に立って歴史の深い闇の中から探り出したのである。「歴史は重層的である」との著者の言葉が印象深い。若き学究の意気やよし。
日本統治下台湾の教育は畢竟、日本への同化の手段であり、また、いわゆる社会の「近代化」をもたらす役割をも果たしたのであり、つまるところ、日本統治下の台湾では日本化、近代化、植民地化のそれぞれが複雑に絡み合いながら進行したとみられる。こうした重層的な視点は、抑圧者と被抑圧者、植民地支配者と被支配者といった単純な二項対立の論法の悪弊を包み込んで余りある。
ただ一つ注文を付けるとすれば、漢族以外の先住民に対する教育は、理蕃政策として、一般の漢族系住民とは別に、警察の管理下に置かれていたとして、著者が今回、フィールドワークの対象外としていることである。次回は是非とも先住民への目配りも視野に入れた論考を期待したい。なぜなら、1930(昭和5、民国19)年の霧社事件を引き合いに出すまでもなく、先住民の話す日本語の心の奥底には漢族系住民と同等のあるいはそれ以上の血が滲んでいるからである。
最後に蛇足ながら。日本統治期の経験を経過した後の終戦直後の転換期の台湾社会の混乱と困惑は、本書の著述の範囲外であるが、著者が「戦前植民地の国語普及を単なる過去の出来事として捉えるのではなく、今日に続く問題として取り上げている」ことに関連して、私見を付記したい。
台湾は複雑な多民族・多言語社会である。
戦後台湾の悲劇は蒋介石の国民党政権が台湾人の教師や父兄を白色テロの恐怖で縛り上げ、中国人としての歴史観や教育を押し付けるべく閩南語、客家語と日本語を禁止し、戦前の日本語同様、政治的に強制された新しい「国語」として中国語を問答無用に台湾人に押し付けたことに始まる。
今日、台湾の市内を走る鉄道(MRT)の車内アナウンスは国語、閩南語、客家語、英語の4種類が流れている。日常生活には閩南語、北京語などを用いる多言語の世界で育てられた世代が同居している。支配的である標準中国語(北京語)に閩南語、それに英語、日本語的要素までもが混在している今日の台湾の言語情景は、隣国台湾の複雑な文化遺産のひとつとして観るべきであり、そうした情景を作り出すのに、私たちの父祖たる日本人も少なからず係わったこと、それを隣人がいかに受け止められたかを忘れてはなるまい。
(平成28年3月17日 雨宮由希夫 記)