雨宮由希夫

書評『ベトナムの桜』

 雨宮由希夫さん書評です。

ベトナムの桜

ベトナムの桜

 

 

書   名 『ベトナムの桜』

著   者  平岩弓枝

発 売 元  毎日新聞出版

発 行 日  2015年7月20日

定   価  本体1600円(税別)

 

 信長秀吉の安土桃山時代から家康の徳川初期までの短い時期、日本は“海国日本”であった。海外雄飛の夢に生き、アジアの国々を往来した多くの日本人たちにとって、海は未知の世界への入口であり、東南アジア各地には多くの日本人町が形成された。しかし、幕府の鎖国政策によって、日本人町はあっけなく壊滅し、今日、その遺構のほとんどが残っていないことは残念なことである。歴史小説にとって、この束の間の“海国日本”の時代は好個の史材が積もっている魅力あふれる歴史空間なのだが、なぜか、この時代を描いた歴史小説は意外に少ない。その中で、平岩弓枝を作家とし、2014年の毎日新聞』「日曜くらぶ」に連載された本書は徳川幕府によるキリシタン禁圧政策が急速に進展しつつも、御朱印船貿易がまだ続けられていた江戸時代初期を時代背景として、運命に翻弄される日本人を描いた歴史小説であり、期待にたがわない力作である。

 

 花の名所として知られていた瀬戸内海に浮かぶ小島、高取島。その高取島の島長(しまおさ)の家・高取家に生まれ育った大介・次介兄弟が本書の主人公で、仲の良い二人きりの兄弟は父親が遺した借金のために傾きはじめた家を立て直そうとする。兄思いの弟の次介は5歳年上で船に酔う虚弱な体質の兄大介に代わり、一人の水夫として茶屋船(朱印船)に乗り込む。一往復で巨万の富を得ることも夢ではないが、一つ間違えば海の藻屑と化すことを覚悟の上で。

 茶屋船は京の豪商の茶屋本家の持ち船である。茶屋本家は徳川政権下の特権的豪商として最高位を占め、当主は代々四郎次郎を名乗った。初代清延は本能寺の変で危機に瀕した家康を堺から脱出させた「神君伊賀越え」で知られるが、本書における四郎次郎は朱印船貿易にも参入し、安南や交趾にしばしば派船した3代清次(初代清延の次男)であろう。

 南シナ海の荒波にもまれながら、万里の波濤を越えて、次介はホイアンに到着する。 すでにホイアンでは明(清)との交易地として日本人が多く住み着き、日本人の手によって「日本橋」が架設されていて、住民の中から選ばれた長による自治の下、日本人町が形成されていた。ちなみに、ホイアン(會安)はベトナム中部の古い港町で、平成11年(1999)に「ホイアンの古い町並み」としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。

 一方、よんどころない事情で故郷を追われ堺を経由して長崎に出奔した大介はある時、幕府が国を鎖そうと考えているらしいことを耳にする。次介の身を案じた大介は幕府がお触れを出す前に次介を帰国させねばと、伝手を頼り、阿蘭陀船に乗り、弟がいるというホイアンを目指す。

 ホイアンの港で、別かれ別かれになっていた兄弟は漸くめぐり合う。

 しかし、遠くもない将来、このホイアンの町が兄弟の今生での最後の別れの場所になろうとは、この時、二人は知る由もない……。

 

 主な登場人物としては、幼馴染みで親が決めた大介の許嫁である小野家の奈美と、その妹比奈。および村上水軍の淳姫の3人が大介を取り巻く女性たちであり、大介にとっての大恩人というべきは黙々と剣を教えてくれた長崎奉行支配下の谷文四郎、心の後楯になってくれた長崎・観音神院住職の孝慶和尚、阿蘭陀船ナタリア号のズーフ船長の3人である。また次介にとっての大恩人は茶屋船の船頭・権之助、アイアンの日本人町の会主・新宮仁左衛門である。

 さまざまな過去を負う人々が不思議な縁で結ばれ、鎖国令発布前後を背景とし、長崎からホイアンまでの煌めく海洋を舞台に、人間ドラマが繰り広げられるのには目を瞠らわされる。

 再会を果たし喜び合うのも束の間、愈々兄弟、うち揃って帰国の手筈が整ったところで、 次介に現地に残らざるを得ない事態が発生し、大介のみが帰国の途に着くことになる。帰国を目前にしての兄弟の別れこそ、悲劇のすべてであった。この後、大介はこの時次介をホイアンの町に戻らせたことを終生悔やむことになる。

 

 寛永10年(1633)晩秋、「生まれながらの将軍」を自任してはばからない独裁者・3代将軍家光は第一次鎖国令を発布する。奉書船以外の海外渡航を禁止するとともに、海外へ出かけて5年以上も戻らぬ者の帰国を禁ずるという内容のものであった。なお、奉書船とは朱印状のほかに、幕府老中の許可証(奉書)を持つ船で、主に幕府の御用商人に出されたものである。

 兄弟の別れの時点で、この第一次鎖国令からすでに1年が過ぎていた。この時、大介は「5年以内に弟次介を連れもどせばよい」と考えていた。以前から異国へ行っていた者が、故郷に帰ってくる分には差し支えないとの常識的な判断からであった。しかし、一抹の不安もあった。幕府が禁令を出すにあたって、この国の外、海の向こうの、日本人が渡航している先の国へまで、そのお触れを伝達させる方法を持っているとは考えられないから、日本国のお触れはどうやって諸外国に届くのか、届かない者もいるのではないかの疑念である。

 不幸にして大介の疑念は的中する。はたして、為政者家光は矢継ぎ早の鎖国令を施行。 寛永12年(1635)には、日本人の海外渡航と帰国を禁止してしまう。

 お触れが出て5年以内に帰国すれば問題ないと判断していた大介が驚愕したのは、すでに幕府が日本人の海外渡航を禁止したうえで、海外に居住しているすべての日本人の帰国を禁止したことであった。一枚のお触れで、東南アジア各地に出かけている多数の日本人がことごとく取り残され、弟次介の故郷へ帰る道は永遠に閉ざされたのであった。もし、お触れに背いて帰ってくれば乗っていた船は打ち払われ、上陸すれば打ち首となると大介は知る。海の向こうに取り残されているこの国の人々を国が見捨ててよいものか。余りといえば情け容赦のない非道なお上のなされ方は間違っていると大介は憤激し、「我々は日本で生まれ、日本で育った、れっきとした日本人だ。日本は祖国だ。母の国だ。捨てられるわけがない」と絶叫する……。

 東南アジアに点在した日本人町は今では跡形もなくなっている。

日本人町の日本人すべてがキリスト教徒の亡命者だったわけではない。関ヶ原大坂の陣の敗者、浪人、海賊崩れとともに海外交易に従事した商人や船員も多かったと伝わっている。キリシタンであれ、非キリシタンであれ、多くの日本人――ホイアンの町だけでも300人、一説には1000人もの日本人が在留していたという――が、完全な棄民として放置され、時とともに消滅していく運命に甘んじざるを得なかった。

 

 鎖国政策の犠牲となった日本人の運命を象徴するものとして、ジャガタラお春(1625?~1697)の秘話がある。寛永16年(1639)暮れに、幕府はオランダ・イギリス人の姻戚に係る婦人や混血児を長崎・平戸において捜索・拘束して280数名をオランダ船で平戸からジャガタラ(今日のジャカルタ)に放逐しているが、お春もその一人であった。幕府は国外の邦人の帰国を完全に遮断するだけでは飽き足らず、国内の異分子を除去するという挙に出た。「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」はお春が書いたとされるジャガタラ文の一節だが、そこに託された望郷の念は、日本へ、故郷へ、帰る道を自分の意志ではなく、国家権力によって強制的に閉ざされてしまった多くの日本人の心情と共通のものであったに違いない。

 末尾に掲げられた次介の手紙。もちろん作家平岩弓枝の創作だが、ここにはジャガタラ文に勝るとも劣らぬ日本人の望郷の念が溢れていて、読むに堪えず、作中人物の大介と相和して、涙下るを禁じ得ない。

 

「あんちゃん ホイアン日本人町で日本人はもう5人きり、みんなホイアンの土になった。桜が見たいといい出してみんなで布を切り抜いて花弁を作った。自分で作った自分の墓に、自分が死んだら撒いてくれと遺言した。仲間の一人がその中の少しばかりの花片を持ってホイアンを発つ。万に1つ、無事に着いたら頼みます。高取島のいつも一緒に花片を集めた海の見える桜の木の下から本物の花片と一緒にこれを撒いてくれ それが俺達への供養だと思ってくれ あんちゃん、達者でな                                                  次介」

 

(平成27年8月18日  雨宮由希夫 記)

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