雨宮由希夫さん書評です。
書 名 『定恵、百済人に毒殺さる』
著 者 岩下壽之
発 売 鳥影社
発行年月日 2015年5月27日
定 価 本体1800円(税別)
日本の古代から近世に至るまで日本政治史上に勢力を保持した名族・藤原氏。その藤原氏の始祖で、大化元年(645)中大兄皇子(後の天智天皇)と結び、蘇我蝦夷・入鹿父子を斃し、いわゆる大化の改新の政治改革を進めた人物である中臣(後の藤原)鎌足には、不比等のほかに、夭折した定恵(じょうえ)(俗名・中臣真人)という長男があった。
本書はその定恵を主人公とした歴史小説である。
定恵(643~665)は皇極2年(643)に飛鳥に生まれた。白雉4年(653)5月、11歳で第2回遣唐使一行に加わり留学僧として渡唐、玄奘の弟子の神泰法師に師事し、11年間を長安で過ごした。天智4年(665)9月、帰国した[が、3か月後の同年12月、飛鳥の鎌足邸で死去。享年23歳であった。
定恵については三つの謎がある。その一つは、出生にまつわるものである。実父は鎌足ではなく、孝徳天皇であるという皇胤説。二つ目は、鎌足は何故、この真人に中臣=藤原の氏を継がせず11歳で出家させ、渡唐させたのかという疑問。三つ目は、百済人に毒殺されたというがその早すぎる死である。
物語は定恵渡唐4年後の唐の高宗の顕慶3年(658)、15歳の定恵が自らが人質の身であることを知るシーンからスタートする。
定恵を取り巻く登場人物としては、義蔵、叡観、雪梅の3名が重要である。
新羅留学僧で4歳年上の義蔵は弟弟子のような異国の少年定恵に言い知れぬ憐憫と愛着を覚えている。新羅と百済の戦闘を回避するために行動しようとする義蔵は留学僧の身分を逸脱しているのは確かであるが、定恵が僧侶であるより憂国の士である義蔵から受け影響は絶大であった。
叡観は蘇我馬子を祖父に持つ蘇我氏の傍流で、本名を曽我日向といい、かつては軽王(孝徳天皇)の近侍であった実在の人物であるが、この物語では中国大陸に流れ出て定恵に付きまとい「お前の父は鎌足ではない。孝徳天皇だ」と放言する、僧衣をまとった亡命倭国官人であり、かつ、手の込んだ策略で唐朝に取り入る政僧として登場する。
雪梅は定恵が初めて恋慕の情を抱いた女性。雪梅の祖父は大業10年の遣隋使の一員で、祖母は高昌国の人。倭人の血を引いている雪梅を同伴して倭国に連れ行く話には玄奘法師がからんでいる。
蛇足ながら、玄奘と高昌国について付言。玄奘の出国は唐の太宗(李世民)の貞観3年(629)、帰国は貞観19年。高昌国は貞観14年(640)に、太宗によって滅ぼされている。また、名高い『大唐西域記』は玄奘自身の苦難を極めた旅の記録ではなく、大唐帝国の西域経営に資するためという、太宗の勅命によって著述されたものである。
本書のあらすじを定恵の独白の形で紹介したい。
父鎌足がわざわざ自分の頭を剃って遣唐使の一行とともに送り出してくれたことが懐かしい。自分が出家させられて渡唐したことは恨むまい。悔やむとすれば、自分が人質として無理やり唐へ送られたという事実を知ったのがきっかけで、学問僧としての修行を中途で放棄してしまったことだ。しかしあの叡観のいう通り、邪魔者として異国に追い払われたのなら、心は穏やかではない。父の真意はいずこにあったのだろうか。自分が孝徳天皇の子であるという風聞が真実であるなら、自分はあの悲劇の有間皇子の同母兄であることになる。根も葉もないうわさ話で叡観の作り話と思いたいが、もし自分が本当に孝徳天皇の落胤なら、帰国すれば命がない。中大兄の異母兄の古人大兄皇子は僧形となって吉野山に隠棲したにもかかわらず謀反の罪で殺害され、有間皇子も同じ道をたどっている。皇位継承の有力候補であり、中大兄皇子にとって政敵になる自分が猜疑深く冷徹な策謀家の中大兄皇子から逃れる術はない。そのことを見越して、父は自分を唐に送り出したのか。
朝鮮半島の三国(百済、新羅、高句麗)と唐、倭国の絡み合い、鬩ぎあいがこれほどのものとは。百済の同盟国としての日本は唐にとって目障りな存在以外の何物でもない。唐の狙いは朝鮮全土の征服にあると、新羅は唐の野心を見抜いている。同じ海東の地にあって、三国はなぜ争うのか。まさか自分がそれに一枚かんでいようとは。倭国を離れ、異国の地に立つと、倭国のことがよく見える。
白村江の戦いで、百済・倭国は唐・新羅の連合軍に敗れ、万を超える百済人が倭国に亡命した。倭国は唐軍の侵攻必至とみて筑紫周辺の防備を急いでいるが、唐は旧百済領地と同様に倭国にも都督府を置かんとしている。
渡唐10年の節目の年。長安で先の見えない生活を送っている自分は22歳となった。自分を倭国との取引材料に使おうとする唐の意中は自分には透けて見える。倭国への帰還がかなわないなら大唐で果ててもよいと思いもする。唐に11年、百済の故地に1年、計12年間の唐朝監視下の人質生活を送っていたが、ついに、天智4年(665)、自分は唐の使節劉徳高の船に乗って筑紫の都督府(唐の占領地)に着いた………。
7世紀の日本の国内外情勢があたかも眼前の情景のように生き生きと繰り広げられていることに読者は息を呑むことになろう。7世紀後半に、日本国という天皇制の律令制国家が成立するが、その時代、日本は乙巳の変(645)、百済の滅亡(660)と白村江の戦い(663)での大敗、そして、定恵没後のことだが、壬申の乱(672)の勃発となるのだが、これら一連の歴史の事実が定恵の身許や社会的地位に関わることとに深くつながっていることが物語の進展で明らかになる。
梅原猛(1925~)の『隠された十字架 法隆寺論』(1972年刊)の中の第2部第2章の「権力の原理の貫徹――定慧の悲劇」は「定慧(定恵)皇胤説」についての論考であるが、本書『定恵、百済人に毒殺さる』は梅原説を小説化し、定恵を血肉の通う一人の人間として甦らせた。
定恵の生まれた皇極2年(643)は曽我入鹿が斑鳩に攻め込んで山背大兄皇子を自殺に追い込んだ年である。このことがそもそもすべての始まりであり、定恵には16歳も年の離れた弟の藤原不比等(659~720)があった。定恵には故郷の飛鳥に帰れない事情があったのだ。加えるに、緊張する当時の東アジア情勢の描写はリアリティに溢れあたかも現代の縮図を見る思いがする。これにまさる歴史小説の醍醐味はないであろう。
古代史を舞台とした歴史小説を数多く手がけた黒岩重吾(1924~2003)晩年の作品『中大兄皇子伝』(2001年刊)に、白雉4年5月の遣唐使の出国の1か月前に、鎌足が11歳の定恵を遣唐使に同行させると言い出して中大兄を慌てさせるというシーンがある。「定恵が孝徳天皇の落胤ならば、吾(中大兄)にとって邪魔になる。吾には鎌足の複雑な心境は痛いほど分かる」と黒岩は中大兄に語らせているが、黒岩の造形はこれにとどまり、謎に包まれた定恵の悲運の生涯に及ぶことはない。それと本書を読み比べれば、岩下の造形と構想がいかに跳びぬけたものであるかわかるであろう。
作家・岩下壽之(いわしたとしゆき)は昭和14年(1939)大阪府豊中市生まれ。著作は〈遣唐使三部作〉があり、その第一弾は『井真成、長安に死す』(2010年刊)、第二弾は『円載、海に没す』(2013年刊)で、本書はその完結巻となる。
作家は5年の歳月をかけて、遣唐使の華やかさの裏に隠れた悲劇を追ってきた。これら三部作はいずれも歴史の波間に消え去った、井真成、円載、定恵という一人の日本人の数奇な在唐生活と、その悲劇的な一生を、史実を希求する大胆な想像力と冷徹なリアリストの史眼で描きつくした壮大なスケールの歴史小説である。
(平成27年6月8日 雨宮由希夫 記)