雨宮由希夫さん書評です。
書 名 『志士の峠』
著 者 植松三十里
発行所 中央公論新社
発行年月日 2015年4月25日
定 価 ¥1800E
文久3年(1863)の「天誅組の変」を史材とした歴史小説である。
天誅組についての歴史小説の先行作品としては、菊池寛の『天誅組罷通る』、吉川英治の『貝殻一平』、司馬遼太郎の『おお、大砲』『五条陣屋』、安岡章太郎の『流離譚』、大岡昇平の『天誅組』などがある。大岡昇平の『天誅組』は天誅組の変の実質的首謀者というべき吉村寅太郎を主人公とし、寅太郎の思想や時代背景を事細かに掘り下げているが、未完の大作というべきであろう、大和の旗挙げを前にして、「しかしこれはまた別の物語である」で終わっている。
植松三十里の『志士の峠』は王政復古のクーデターを画策、討幕の密勅作成に関与した幕末の公卿・中山忠能の七男の、中山忠光を主人公とし、挙兵の経緯から、逃走、壊滅、そして忠光の非命の最期までのすべてを記述したもので、「実録 天誅組」あるいは「評伝 中山忠光」が副題として添えられて然るべき内容の本格的歴史小説である。
天誅組は土佐脱藩の浪士吉村寅太郎を中心に組織された尊王攘夷過激派の集団で、文久3年8月17日、幕府の天領であった大和五条(現・奈良県五条市)の代官所を襲撃し、代官鈴木源内の首を刎ね、鳩首し、代官所に火を放つ。
彼らがいつの時点で天誅組を称したかは、詳らかでないという。大岡昇平の『天誅組』で、大岡は、彼ら自ら「天誅組」と称したわけではなく、世の人がそう呼んだので、それに従う、と述べている。
文久3年という年は、将軍家茂の上洛に始まり、新選組の結成、天誅組の変とエポックメーキング的事件があり、幕末史の中で何かが大きくはじけ飛んだ年であった。家茂の上洛は後世からみれば徳川幕府最後の国家的行事と言えるが、この年、京都を中心に攘夷運動が荒れ狂っており、厳戒の中での上洛となった。政局の中心は完全に江戸より京都に移ったのであった。
天誅組の挙兵は、そもそも、挙兵の4日前に発せられた孝明天皇の大和行幸の詔勅を踏まえ「攘夷親征の奉迎」と称してなされた。吉村ら攘夷派浪士は大和行幸の先鋒となるべく、攘夷派公卿の前侍従中山忠光を主将に迎えて京を出発し、突如として五条代官所を襲撃占領し、討幕の先駆けとしたのだった。
大和行幸を契機として、討幕の軍を起こそうとする密かなる計画はいつの頃より練られたものであるか、これまた不明とのことである。この物語では、行幸の先鋒隊を命じられたとする中山忠光が挙兵の総大将として大和へ飛び出すべく、妻の富子に別れを告げるシーンからスタートしている。
中山忠光は明治天皇の叔父にあたる。忠光の姉の慶子が祐宮睦仁親王(のちの明治天皇)の生母なのである。妻の富子は平戸松浦家の出で、278巻の大著『甲子夜話』をなした松浦静山は忠光の外祖父にあたる。こうした姻戚関係の綾なす因果も物語の中に絶妙に取り入れられており、幕末史を読み解く上で興味を掻き立てられる。
物語では、7歳年下の甥の祐宮が天皇の座に着く頃までには日本を揺るぎない国にしておきたいと意気込む若き忠光が描かれている。天誅組の挙兵は忠光にしてみれば「祐宮さまのための挙兵」であったのだ。
天誅組の組織は忠光を主将とし、松本奎堂、吉村寅太郎、藤本鉄石の3人を総裁としたが、これら幹部の人物描写も読みどころである。
吉村寅太郎は土佐の庄屋の出で、土佐勤王党に参加した経歴を持つ。「世間知らずの公卿の若者を、一人前の勤王家に育ててくれた吉村は忠光の恩人であり、師であり、親友であった。忠光にとって誰よりも大切な同志で、吉村なくして天誅組はなかった」、「百姓が笑って暮らせる新しい世の中を夢見る。弱い者への視線は共通していた」と作家に語らせるだけの人物であったのだろう。
挙兵直後の8月18日、京都で「八月十八日の政変」が起こる。この長州藩を京都から駆逐する企てにより、大和行幸の延期が決定され、三条実美ら7人の公卿が長州に追放された。たちまち挙兵の大義名分を失った天誅組は皇軍御先鋒隊ではなく、朝敵として追討される危険に直面する。皇軍御先鋒隊を名乗ることができなくなったこの時点で、藤本鉄石の発案で「天誅組」を名乗ることになったと、本書の作家は物語っている。
「義挙」とも「暴挙、無謀の挙」とも解釈される天誅組の変の真実とは何かに思いをはせて、ストーリーを追う際、「天誅組」の名称がいつ生じたのかを押さえることは重要なことである。
代官鈴木源内を殺さず、代官所を焼打ちしなかったなら、政変を知った段階で、忠光自ら解散を宣言し、矛先を収めて京都へ引き返す道もあったろう。天誅組はすでに引き返すことのできない一線を越えてしまっていたのだ。
これより、天誅組の壊滅に向けての悲惨な戦いが始まる。
天誅組の主たる戦力は十津川郷士であった。深き山々に囲まれた山間の別天地・十津川郷は南北朝の昔より勤王の気風に溢れていた。「京都の事情が変わった今、十津川郷士の協力がなければ、もはや先はない」とする忠光と、「天誅組を匿えば、今、朝敵になり、突き放せば、後々、朝敵になる」と呻吟する十津川郷士の命がけの綱引き。天誅組が隣接の紀州、彦根、津、郡山の諸藩の兵に圧迫されながら、1か月以上も支えることができたのは十津川の険により十津川の人々に支えられたからに他ならない。
若き大将の苦悩、若い志士たちの人間模様と天誅組内部の対立抗争。約40日にわたって西熊野街道を南北に往来すること5度。西吉野、十津川と転戦し、東吉野の鷲家口(現・奈良県東吉野村)で幕府軍に捕捉され壊滅している。
司馬遼太郎は『街道をゆく』で「十津川街道」を歩き、「中山忠光という愚人」を擁した「天誅組の命運」に思いを馳せ、「浪士たちには気分のいい、楽天家が多かった。それだけにいっそう凄惨な思いがする」と記しているが、本書の作家植松三十里は西熊野街道から東熊野街道へと天誅組の足跡を実地に辿り、ひとたび挙兵した後の種々相を努めて冷静に書き分け、司馬とは異なる像を結んでいる。
天誅組の壊滅後、忠光は辛くも敵の重囲をかいくぐり大阪へ脱出。さらに長州に逃れたが、潜居中の下関で、禁門の変の後に長州藩の実権を握った恭順派(俗論党)の手にかかり、第一次長州征討下の元治元年(1864)11月8日に暗殺された。長州藩の支藩・長府毛利家(4万7千石)の公式記録では、酒と女に溺れた末の衰弱死とされたが、長府藩の放った刺客による暗殺であることは間違いない。
はたして、忠光は「酒と女に溺れた」「愚人」にすぎなかったのか。作家は忠光が生涯に二度、女をあてがわれた事例を小説の中に取り入れている。最初は村娘が伽に出たとき、次は側女を勧められたときで、いずれも京に残した妻・富子を裏切るような真似はできないと即座に断る忠光を描いている。
さらに肝心なことは、「将軍家茂を江戸から京都に呼びつける計画を立てたのは忠光」であるとしていることである。また忠光の思想の核心を「真の尊王攘夷とは外国人をむやみに恐れる感情論ではなく、ただ帝を崇拝するのとも違い、おのれ自身が実際に動くことである。かくして、あえて独断専行を決意した」としている。
武力的にも経済的にも、何ら特別の背景を持たない忠光の行動は確かに空想的なものであったといえようが、忠光が目指した倒幕は5年後に実現し、明治維新を迎える。天誅組の蜂起は、尊攘派の初めての武力蜂起という点で「維新の魁」と呼ばれるにふさわしいが、最終章で作家は、天誅組が戦時中は戦意高揚の道具となり、戦後はその反動で否定された事実に触れ、今もって天誅組は世の中の都合に翻弄され続けていると結論付けるとともに、忠光の忘れ形見・中山仲子に言及している。仲子の孫、嵯峨浩こそ清朝のラストエンペラーの皇弟・愛新覚羅溥傑に嫁いだあの浩さんであるが、「そこから先には、また別の物語がある」と結んでいる。
(平成27年5月25日 雨宮由希夫 記)
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