書名『ラ・ミッション 軍事顧問ブリュネ』
著者名 佐藤賢一
慶応3年(1867)1月、ナポレオン三世は徳川幕府からの要請を受け、フランス軍事顧問団(ラ・ミッション・ミリテール)を日本に派遣した。シャノワーヌを団長とする一行15名の軍事顧問団は幕府陸軍の近代化に貢献した。
砲兵中尉(リュートナン)のジュール・ブリュネは、フランス軍事顧問団の副団長として来日し、フランス軍事顧問団解散後も日本に留まり、戊辰戦争の最終局面、箱館・五稜郭の戦いを榎本武揚や土方歳三らと共に戦ったフランス士官である。また、画才豊かだったブリュネが遺した細密画のようなスケッチ200枚は幕末の日本の風景を克明に伝え、かつ史料性、情報的価値も高いものとしてつとに知られている。
ブリュネが登場する〈幕末もの〉歴史小説は、綱淵謙錠の『乱』をはじめとして少なくないが、フランス人ジュール・ブリュネを主人公として、激しく揺れる幕末の日本を、主に鳥羽伏見の戦いから五稜郭の戦いまでの戊辰戦争をブリュネの視点から描写した歴史小説は本書がはじめてであろう。
物語のスタートは慶応4年(1868)1月6日。大坂城に到着したブリュネはただならぬ血の匂いに内戦が勃発したことを知るとともに、城内で尋常ならざる人物に会いまみえる。髻を切って日本人であることをやめ、フランス式戦法を習得したいと熱望するこの人物こそ新選組副長・土方歳三であった。その土方をブリュネは「イジカタさん」と連呼し、土方に「イジカタ? 俺はヒジカタだ」と切り返されるのだ。幕末の日本人はフランス人がHを発音できないことを知らない。フランス人にとって、ヒジカタはイジカタであり、ハコダテはアコダテとなる。土方との出会いシーンから早くもフランスに造詣の深い作家の作風が表れており、興味深い。
1月3日にはじまる鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜が部下を見捨てて敵前逃亡し大坂より逃げ帰って江戸城西の丸に入ったのは1月12日の午前10時。これより城内で連日のごとく評定が繰り広げられる。フランス軍事顧問団も江戸城に呼びつけられ、評定の場にあった。強硬に徹底抗戦を唱える勘定奉行・小栗上野介忠順を前にして、いたたまれなくなった慶喜が退席しようとするのに、小栗が慶喜の袴の裾をつかんで離さず、怒った慶喜が罷免を申し渡したという有名なエピソードが伝わるが、本書では、小栗忠順罷免の現場にブリュネが居合わせたとするシーンが造形されている。
「徳川慶喜といえば、小栗の登場に愉快ならざる表情だった。部外者の目からも察せられたところ、この高官は必ずしも主君に愛顧されているわけではなかった。」とブリュネが分析した上で、慶喜がなおも食い下がる小栗に、「わしの心は最初から決まっておる。朝廷には恭順の意を伝える。」と吐き捨てる。
「通訳されても、最初は理解が及ばなかった。つまるところ恭順というのは、降伏の意味ではないのか」と解するブリュネは、「戦う気がないなら、どうして我々を評定に読んだのか」と慶喜に対する不信を露わにする。
「フランス軍事顧問団の任を解く」の通達が幕府より下るのは2月13日(その前日に、慶喜は上野寛永寺での謹慎生活に入っている)。勝海舟の登場となるが、勝という人物はブリュネの眼には「一筋縄ではいかない怪しげな奸物」「あの老獪な男」「政治屋」と映る。江戸城内の評定の席における勝海舟は、一説には、「始めは軍艦を率いて駿河湾および摂海を奇襲する策を立てたが、慶喜の恭順の意が固いのを見て、前言を翻して和平解決を図ろうとし、大久保一翁とともに主戦論に反対した」(吉田常吉『幕末 乱世の群像』)とされる。慶喜の顔色しか観ていない勝海舟の実在が研究者の世界でも指摘されている。
「トバフシミにはじまるヨシノブ陛下の行動」は誰にも予測不可能だった。「一切の抗戦を放棄して、あんな風に降伏してしまうなんて」信じられないブリュネは慶喜の恭順も、フランス軍事顧問団の解任も、勝の一存なのではないかと疑う。作家による「勝の一存」というこの造形は維新史の真実を探るうえで極めて重要な意味を持つ。
慶喜と勝が狂わせたのはタイクン政府やそれを支持してきた勢力、はたまた日本という国の運命だけでなく、駐日フランス公使として、薩長を支持するイギリスに対抗し幕府を支持するというレオン・ロッシュが進めてきた外交も破綻した。一貫して親幕派であったロッシュは幕府が近代化し政権を維持する上でのさまざまなアドバイス・援助を惜しまず、横須賀製鉄所の建設、横浜仏語伝習所の設立、軍事顧問団の派遣などに貢献してきたが、それら一切が無に帰する危機をもたらした。
この日本の動乱を前にして個人としていかなる態度をとるべきか。
榎本武揚や土方歳三らとの関わりのなかで、日本人の士道(エスプリ)に心をうたれたブリュネは、「ほんの緒戦きりで徳川慶喜が降伏して恭順の態度に徹し、その意を受けた勝海舟が江戸を無血開城しても、そのまま日本人という日本人が、薩長の野望にあっさり屈して、薩長によるミカド政府を認めてしまうはずがないことを知り、イギリスによる属国化を許せず、フランス軍事顧問団が手ずから指導して育てた伝習隊の兵士たち、教え子たるあの精鋭たちこそ力づけたいと思うなら、フランス政府の方針など関係ない、一個の人間として行動せんと腹を決める。かくして、エリート士官のブリュネは母国で約束されているフランス軍人としての輝かしい将来を捨て、母国からの帰還命令にあえて背き、“勝たねばならない戦い”に身を投じるべく、品川沖の榎本艦隊開陽丸に乗り込む。
部外者として日本の動乱を傍観できず、戊辰戦争に参加するにいたるまでのブリュネの葛藤が丁寧に描かれている本書は一味ちがった〈幕末もの〉歴史小説である。フランスから見た日本という視点で幕末が描き出されているところがとりわけ新鮮である。駐日イギリス公使のパークスは鳥羽伏見の戦いの勃発を薩長の暴走と観、戦えば敗色濃厚と判断していて、それゆえに「局外中立」を掲げて西郷に江戸無血開城を強要したが、タイクン政府が崩壊の道をたどるばかりで、後は残党を始末すればよい情勢となるとみるや「局外中立」に縛られていること自体が日本を属国化したいイギリスの足枷となったことなど、視点を変えることで、歴史の真実が浮かび上がり見える世界が広がってゆく。
勝と小栗の人物造形にも着目したい。小栗上野介はフランスとの経済提携を推進したが故に「親仏派」といわれるが、あくまでも幕府を守るという責任ある立場から発言し行動した幕府衰亡期における最も傑出したエリート官僚である。勝には「カツ・アワ」として章立てているが、小栗の章はなく、「小栗上野介こそ政府におけるフランス軍事顧問団の後ろ盾だった」とあるのみである。当然あるべき慶応4年閏4月6日の小栗の死に関する記述はなく、ブリュネの小栗理解は「小栗上野介が上州の領地に下がるまでは知っている」にとどまっている。
明治維新は「外国の傀儡である一部の者が、謀略において権力を奪取する不正義」の上に成立したとみるのが勝と西郷による江戸無血開城神話を茶番と看破している作家の歴史理解のようである。
ラストシーンでは、もしや死に場所を探しているのではないかとブリュネが危惧する土方歳三がよもやの形で再登場する。これから本書を手にする読者のために、奇想天外なストーリー展開とだけ、と記しておこう。
土方歳三は歴史小説の世界ですでに復権して久しいが、小栗上野介の名誉回復が果たされたとは言い難い。佐藤 賢一(1968年山形県鶴岡市出身)は東北大学大学院で西洋史学を専攻し、作家としてデビュー以来、主に中世から近世にかけてのヨーロッパを舞台とした歴史小説を多く書いている直木賞作家である。フランス語史料を駆使し、ラストサムライ小栗を主人公とした歴史小説を期待したい。
(平成27年4月11日 雨宮由希夫 記)