雨宮由希夫

書評「幕末愚連隊」

書名『幕末愚連隊』
著者 幡大介
発売 実業之日本社
発行年月日  2015年1月20日 
定価  ¥1700E

幕末愚連隊

幕末愚連隊

 


 長州奇兵隊赤報隊彰義隊、伝習隊、白虎隊など幕末のいわゆる「諸隊」は、官軍、幕府側の双方に存在し、その性格は多種多様であるが、幕府歩兵隊は当時の日本国で最精鋭の兵たちが集められたユニークな歩兵集団であった。
 本書の主人公の利助は元相撲取りで、幕府歩兵隊の兵士である。

 

 物語の第一幕は慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見で敗走した幕兵が江戸にぞくぞくと引き返してくるところからはじまる。幕兵たちは薩摩や官軍に寝返った大名たちの追撃を退けながら東海道を徒歩で江戸まで逃げてきた。彼らを収容する場所では食料も不足がちとなり、規律も乱れる。江戸は無政府状態となった。これから先のことが全くわからない。まもなく、「お上が、降参に決めやがった!」と知り、「俺たちはどこにも行き場がなくなったぞ」と動揺が拡がる。幕府の瓦解とは誰も彼らに給料を支払わないということであり、大坂や江戸で幕府の募集に応じて集まった無頼の徒であった彼らがまたしても失業者になることを意味した。


 2月7日夜、歩兵指図改役(軍曹、曹長に相当)の村上長門介こと藤吉の扇動で下士官を殺した三番町屯所幕府歩兵隊の歩兵たち500名が脱走し、千住方面へ走り去り、道々、掠奪と暴行、無銭飲食を繰り返しながら日光道中を一路、北上し続けるという事件が起きる。
 藤吉は本所南組の纏持ちで、利助と似たような素性だが、新規募集兵の利助とはことなり、鳥羽伏見で銃火を潜り抜けてきた男である。そのような藤吉から漢として評価された利助は藤吉と行動を一にするが、利助は徳川に殉ずるというよりはその日の飯にありつくために。走隊に身を投じたのである。
 脱走歩兵隊はやがて幕臣古屋作左衛門の指揮下に入り、隊号を衝鋒隊と名乗るのだが、古屋との出会いが利助や藤吉の生き方を運命づける。ストーリーの第二幕の始まりである。

 

 本書では、幕府陸軍総裁の勝海舟より脱走兵討伐を命じられた幕臣古屋作左衛門が脱走兵を下野佐久山(栃木県大田原市)で帰順させるが、それは海舟の諸隊江戸追い払いの計略であった、とされている。なにより、「慶喜に再上洛の志あり」と古屋に告げる海舟の描写がユニークである。海舟は不穏勢力に軍資金、兵器、恩賞の空手形を乱発し、彼らを江戸周辺から遠ざけたかった。かくして、甲陽鎮撫隊と名を改める新選組には甲斐国の鎮撫を命じ、脱走歩兵隊をまとめた古屋には信州中野陣屋その他24万石の幕府直轄地の鎮撫を命じた。
 
 3月9日朝、古屋を総督とする信濃鎮撫隊は梁田(栃木県足利市)で東山道先鋒隊と衝突し、惨敗を喫する。関東における新政府軍と旧幕府軍の最初の戦であり「新政府軍、強し、旧幕府陸軍、形無し」の印象を内外に植え付けたこの梁田戦争の意義は限りなく大きい。
 戦乱の日々、作左衛門を「本物の漢」と慕う藤吉は「勝てば信濃のお旗本だ。負けたらヤクザに逆戻りだぞ!」と利助たちを鼓舞する。敗残兵はいつのまにか猥雑で妙に士気旺盛な元の集団に戻る。そこにヤクザ者や渡世人上がりの歩兵たちのしぶとさを見る。歩兵たちは炊き出しの飯を喰らう、それだけが楽しみ、あるいは生きる目的で戦ってきた衝鋒隊は日本一の負け戦上手である。一つには隊長の古屋作左衛門の人格が随分影響している。作左衛門は幕府奥医師高松凌雲の実兄で、明治2年5月16日、戦死。五稜郭落城の前々日であった。享年37。なお、吉村昭には箱館病院の院長として敵味方の別なく負傷者の治療にあたった博愛と義の人・高松凌雲の生涯を描いた歴史小説『夜明けの雷鳴』があり、作左衛門や藤吉も登場する。併せ読みたい。


 越後長岡藩7万4千石の家老河井継之助との出会いが第三幕の開演である。
 「身についた江戸弁が遊び人にしか聞こえぬ。江戸ではよほど遊んだのだろう」と造形される継之助の風貌は司馬遼太郎の『峠』とは一味違ってこれまた新鮮である。河井継之助は日本有数の近代装備を整えた軍事力を保持して、長岡藩の武装中立策を唱える。新政府軍と会津・旧幕軍の間に立って調停しようとしたのだが、局外中立要求が新政府軍に退けられるとやむなく戦いを決意。寡兵をもって奮戦するも虚しく敗れる。
 
 東軍に勝機はなかったのか。戊辰戦争の流れをたどって見ると、越後戦線、特に長岡の攻防がポイントであり、ここにも衝鋒隊がからんでいる。
 死を前にした継之助と利助との会話の中に作家はある思いを込めている。継之助は「勝ち目のない戦だったんじゃないか」の疑念が蟠っている利助に、「勝算はあった」と告げ、また「この戦が終われば外国との戦になる。薩長土の兵たちは役人となって出世し、威張り散らす。戦場に駆りだされるのはおまえたち列藩同盟の兵たちだ」と語る。事実、その後のわが国の近現代史を見れば、その通りであろう。山本五十六石原莞爾東条英機、みな列藩同盟の兵の末裔である。明治と改元される直前の慶応4年8月16日、「(勝利のための)肝心の秘策を胸に秘めたまま」継之助は南会津郡只見村にて死す。享年42。


 北越戊辰戦争河井継之助奮闘の歴史として物語られてきた。が、本書では、常に頼りになる脇役として、主役たる継之助を支え、兵力の消耗、犠牲を顧みず戦った衝鋒隊の働きがあまねく描かれている。
 戦いの舞台は越後から会津へと移る。
 
 鶴ヶ城落城の日が迫ったある日、利助は三番町の屯所以来の盟友の山崎新九郎から衝撃的な事実を伝えられる。蘭方医術の新九郎は「徳川家の歩兵隊を会津に連れてくるように命じられて屯所に入った会津の武士で会津の間諜なのだ」と。さらに「ともに城に入って戦おう」という利助に投げつけられた差別的な言辞が衝撃的である。「ヤクザ者とともに死ぬなど御免蒙る」。会津軍の別働隊としての役割を演じていた越後で戦った衝鋒隊会津では大鳥圭介の伝習隊と協同して戦うが、会津にとって、衝鋒隊にせよ伝習隊にせよ彼らは「外人部隊」それ以下でもそれ以上でもなかったことがわかる。
松平容保の心づもりと企図」「白虎隊」「会津士魂」「会津藩の正義」「会津の悲劇」……等々、小説の合間に「会津のこと」が語られるが、作家には会津への過度の思い入れはなく、むしろかなり辛口である。極めつけは「会津と民主主義」に関する見解である。


 東山道先鋒総督府参謀で、会津攻めでも中心的役割を果たし、のちに明治専制政府(薩長藩閥政権)に対し、自由民権運動を主導した板垣退助は『自由党史』で、会津の一般の人民は官軍に敵対する者がいないだけでなく、協力する者さえいた…と、自由民権のための策説であろう、我田引水の独善的論理を展開しているが、それを踏まえて本書の作家は「会津の百姓町人たちこそが日本の民主主義の嚆矢であった」としていることである。
 明治維新が「鳥羽伏見」というたった一度の戦の帰趨から踏み出されてしまったということは、続く明治という時代の政治的性格を決定してしまった。まさに河井継之助の「勝も一戦、負けるも一戦」で、つまり、馬上にて天下の権を握った薩長専制強権政治がここから始まった。
 
 慶應3年(1867)12月の王政復古クーデターによって成立した新政府にとって鳥羽伏見にはじまる戊辰戦争とは幕府権力を最終的に解体させるための問答無用の手段であった。これでは幼い天皇を利用して怪しげな政権が突然生み出されたという非難が出るのは当然であり、これが戊辰戦争に際して、東北諸藩の最大の抵抗の根拠となったことは歴史の事実である。


 幕末小説は数多いが、『幕末愚連隊』と題された本書は以上紹介したように戊辰戦争を通り一遍に描いたものではない。まさに時代の先端を駆け抜け明治になるや瞬く間に忘れ去られた兵隊である幕府歩兵隊の隊士を主人公とし、彼らの目線で幕末維新という混沌たる時代の様相をあらわにしようとしている。 


 作家の幡大介は昭和43年(1968)栃木県生まれ。本書は初の本格歴史長編とのこと。作家独自の歴史解釈は読み応えがあり、幕末史上の客観的事実に対する見解には読者の想像力を刺激するものを本書では随所で披露している。次回作も大いに期待したい。
        (平成27年2月2日  雨宮由希夫 記)

 

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