書評家・雨宮由希夫さん書評です。
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書名『冬を待つ城』
著者 安部龍太郎
発売 新潮社
発行年月日 2014年10月20日
定価 ¥2000E
九戸政実の乱とは今から約400年前、天正19年(1591)3月、南部氏一族の有力者で南部家の重臣九戸(くのへ)政(まさ)実(ざね)が、南部家当主南部(なんぶ)信(のぶ)直(なお)および豊臣秀吉に対して起こした反乱である。
注目すべきは、この乱を平定するために、北条氏を滅ぼし天下統一を完成させたばかりの秀吉が軍勢15万を超える奥州再仕置軍を編成したことである。討伐軍は徳川家康、上杉景勝、大谷吉継、石田三成、佐竹義重、蒲生(がもう)氏(うじ)郷(さと)、浅野長政らの武将で編成され、伊達政宗、最上義光、秋田実季、津軽為信ら東北の諸将達も参戦を強いられた。なぜ秀吉は奥州最北端の小城一つを落とすのに、錚々たる歴戦の武将を駆り集めたこれほどまでの大軍を動員したのか。
九戸政実は現在の二戸市に所在した難攻不落の九戸城(岩手県二戸市福岡字城ノ内)に5千の兵とともに籠城した。奥州再仕置軍は圧倒的な軍勢と装備を保持し、九戸城を完全に包囲しながらも苦戦を強いられた。しかし、乱の結果はあっけないものだった。同年9月、豊臣軍は謀略をもって政実を欺く。城を明け渡せば将兵の命は助ける、との豊臣軍の謀略により九戸城は落城。政実は降伏条件を真に受けて降伏したが、総大将・豊臣秀次の陣営にて処刑され、城内に残っていた城兵と婦女子は二ノ丸に押し込まれて撫で斬り(皆殺し)にされ、火をかけられた。助命の約束は反故にされたのである。
九戸政実の乱勃発にいたる歴史背景を略述したい————。
天正18年(1590)7月、豊臣秀吉は全国制覇の総仕上げとしての小田原攻めの後、奥州に下向、会津黒川まで陣を進め、世にいう「奥州仕置」を実施した。小田原に参陣しなかった大崎義隆・葛西晴信の所領30万石は没収され、秀吉の家臣木村吉清に与えられた。また、陸奥三戸城主の南部信直に対して、秀吉は検地や刀狩を強行するよう命じた。南部信直は秀吉の小田原攻めに際し北部奥州諸家でいち早く参陣し、その功により南部7郡を安堵されていたが、それ以前、南部領内に割拠する南部一門はほぼ対等で、合議によって統治を進める同族連合の状況であったが、奥州仕置により秀吉が公認した南部信直を主君とすることにより同族連合は否定され、有力一族も宗家の家臣として服属することを求められた。妻子を人質に出し九戸城を破却して三戸城下に移るよう信直より命ぜられ、独立領主としての立場のすべてを否定された政実は反発し信直と激しく対立する。折しも、同年10月から陸奥国各地で、葛西大崎一揆、仙北一揆など大規模な一揆が勃発していた。奥州仕置の名の下、領主の配置換えや検地などで奥州の制圧を進める豊臣政権の強引なやり方に反発した武士たちが一揆を結んで各地で蜂起した。政実はそうした一揆衆の側に立って挙兵したのである————。
物語は天正19年(1591)正月、九戸城主の九戸政実が南部信直の居城三戸城で催される毎年恒例の新年参賀を欠席し、南部本家への反意を明らかにするところから始まる。
本書の主人公は久慈四郎(くじしろう)政則(まさのり)。九戸家の四男で、29歳の時に九戸家と久慈家との関係強化のため久慈家の婿養子となっている。政則は南部家と九戸家との諍いが秀吉にお家取り潰しの格好の口実を与えると危惧し、兄政実の真意を確かめるべく、久慈(現・岩手県久慈市)から政実の居城九戸城に向かう。久慈から九戸城に至る山中の描写は雪深い奥州の厳しい自然の摂理を甘んじて生きる人々の生の姿を活写していて、巻頭より読者は安部龍太郎の世界にひきこまれるであろう。 『蒼き信長』『天下布武』『生きて候』『下天を謀る』『レオン氏郷』『等伯』など戦国期を史材とした数多くの名作を著してきた安部龍太郎の描く「九戸政実」の安部たるゆえんのものは、九戸政実の乱を小田原攻めと文禄の役の間にある歴史事実を踏まえ、関白秀吉が九戸政実の乱の平定に15万もの軍勢を動員するという異常なばかりの掃討作戦を実施したのには、二つの意図がある、としていることである。
ひとつは、「人狩り」つまり朝鮮出兵の際に人足とする者たちの徴用であり、もうひとつは、奥州の山々をしらみつぶしに調べて、硫黄の鉱山を探し当てることである。奥州仕置の陰のプランナーである石田三成が朝鮮出兵を見据えて、敵国にいるような想定のもとで訓練し、寒さに強い奥州の領民を人足として徴発するという周到な計画を立案していることを、政実がさる筋から知るにはじまり、この二つの意図が物語をラストエンドまで一筋の流れとなって引き継がれる構想は秀抜である。
刀狩りで抵抗力を奪われ、検地の末に過重な年貢を課され、朝鮮出兵のために人足徴用されれば、奥州は疲弊のどん底に浮き落とされる。関白秀吉の仕置を辞めさせるしかとるべき道はない。さもなければ、奥州藤原氏の頃に築かれた蝦夷の王国の伝統および連綿と受け継がれた奥州の大義が失われる。戦を避けなければ九戸家は滅ぼされるという危機感をいだくが、政実は蝦夷の誇りと奥州の大義を守り抜くことに命を賭ける。そこで九戸家の命運、奥州の命運を賭けて一揆の側に立ったのだ。
狐が熊に勝つ方法は一つしかない。手の内を覚らせずに相手を攪乱し、とどめを刺せる場所まで誘き出さねばならない。狐の政実にとって、熊とは秀吉であり三成であって、南部信直ではない。信直は南部の漢であると政実は信じている。熊を斃すためには信直に手の内を明かすわけにはいかない。狡猾な秀吉は南部と九戸の共倒れを待っているのだ。
戦いには勝てはせぬ。中央の強大な力に抗しきれず、滅ぼされることを政実は覚悟している。だが九戸城に立て籠もり、人狩りの中止を条件に和議を結ぶ他に道はなかった。秀吉が人狩りを中止し、家臣領民の命を助けるなら、城と所領と共に和議の引出物として九戸四兄弟の首を差し出すと決めている政実はただひたすら冬が到来し南部が雪に閉ざされるのを待つ。奥州を閉ざす厚い雪が東北の山河を最強の砦に変えるのだ。書名『冬を待つ城』の由来はここにある。
終末の局面で、人狩りの中止を条件に和議を結んだと三成に覚られることを懸念する豊臣軍の大将・蒲生氏郷が、15万の大軍が何のためのものか、謀略の全てを南部信直に明かす。ここにいたって、信直は奥州の大義に殉ぜんとした政実の考えが正しかったと骨身にしみて分かる。死装束に身を包んだ政実と対面した信直が、南部のために起たねばならなかった政実の心中を思いやるシーンは本書最大の読みどころである。政実が南部の漢(おとこ)であるように、信直も南部の漢であったのだ。
「日本及び日本人にとって、奥州とは何か、東北とは何か」が本書の主題である。
安部龍太郎の確たる戦国史観に裏付けられ描写により、政実や信直がどのような生き方をしたのかが鮮やかによみがえる。
平成7年(1995)、九戸城二ノ丸跡から斬首された女の人骨など十数体の惨殺死体が骨となって発見された。九戸政実の乱の犠牲者であることは明らかである(百々幸雄等著『骨が語る奥州戦国九戸落城』東北大学出版会)。
臣下の礼など取った覚えもないのに、秀吉は最初から政実ら陸奥の武士の心など無視し陸奥を自分の領地と決めつけて「仕置」していた。「仕置」には罪人処罰の意味がある。政実らは罪人ではない。秀吉がしたことはまさにかつての内裏が蝦夷にしたことであり中央政府の理不尽さのあらわれである。坂上田村麻呂の蝦夷(えみし)征伐、源義家頼義父子の前九年の役・後三年の役、頼朝による奥州藤原氏の征伐等々、連綿と繰り返されてきた東北の悲劇は、九戸政実の乱の後、幕末維新の東北戊辰戦争へと繋がる。東北人は先祖と同じ戦いを強いられて古代から現代に至っている。
九戸政実を描いた小説は数少ないが、先行作品として渡辺喜恵子の『南部九戸落城』(1989年刊)、高橋克彦の『天を衝く』(2001年刊)がある。それに安部の本書が加わった。三者三様の東北に寄せる思い入れが伝わる秀作であるが、奇しくも三者とも直木賞受賞作家であることも興味深い。三者による競演を併せ読みたい。
(平成26年11月18日 雨宮由希夫 記)