頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー25
東京は世界有数の国際都市ですが、東京となってからまだ150年余りです。それまでは「江戸」と呼ばれていたのは周知のことですが、最近は、近世の江戸においても、人口や識字率など世界に誇れるものが多く紹介されています。
では、江戸という地はいつごろ発生し、どのような経緯をたどって近世徳川将軍家の城下町となったのでしょうか。また、その時々の江戸城はどのような姿をしていたのでしょうか。
その移り変わりを考察しているのが本書です。
江戸は、平安時代末期には存在したといわれています。なぜかといえば、江戸氏という武士団がその地を領有していたからです。よく知られているように、土地は武士と切っても切れない縁があり、土地を得るとその地名を名字とし、一所懸命に守ってきました。
江戸氏も例外ではありません。ところで、江戸の地を治めていた江戸氏は、秩父平氏の流れをくむ一族なのです。秩父といえば、江戸からずいぶん離れています。ではなぜ、秩父平氏が江戸の地へ進出したのか。そのことを考察したのが、本書の第1章です。
その後、盛衰はありながらも、江戸氏は鎌倉時代から室町時代半ばまで江戸の地を治めています。しかしながら、その間歴史上に江戸が注目されることはありませんでした。そんな江戸の地に関心が集まるのは、扇谷上杉家の家宰大田道灌が城を築いてからです。
ちなみに、大田氏や長尾氏などを上杉家の「家宰」や「執事」と表現していましたが、史料的には「家務織」としていることから、最近はそのように呼ぶようです。
大田道灌の築いた江戸城は、どのような姿をしていたのでしょうか。道灌は文武両道に優れており、当時の著名な文化人が江戸城を訪れています。特に万里集九は、道灌の江戸城を愛し、「梅花無尽蔵」に江戸城の姿を残しています。また、「江戸城静勝軒詩序並江亭記等写」により、ある程度江戸城の姿を想像できます。
さらに本書は、発掘遺跡等も併せて「江戸城は、鎌倉・南北朝時代の武士の屋敷とは異なった、広い面積を有する構造の城館であった」と結論づけます。
そして、当時の繁華街である「高橋」とその周辺地を考察します。さて、その高橋は、今の東京のどの辺りにあったのでしょうか。(第2章)
大永4年(1524)、江戸城は北条氏綱によって攻略されます。北条氏の旧姓は伊勢氏ですが、当時の関東で争っていた上杉に対抗して北条と名字を改めました。そのため、北条氏綱は古河公方家をいただく形をとります。そのときの古河公方足利義氏は、自らの御座所として江戸城を考えていたようです。
その頃、「大橋宿」という町場が現れているようです。太田道灌時代の「高橋」とどう違うのでしょうか。あるいは、同じなのでしょうか。そのことを考察しているのが第3章です。
北条氏滅亡後、豊臣秀吉によって徳川家康は関東へ転封となります。第4章は、家康入府前の中世江戸の交通について述べています。
家康は江戸を自らの拠点と考えて、1590年に入府しますが、その頃の江戸について考察したのが第5章です。
家康が江戸に入った頃、徳川家は豊臣家の一大名でした。当然、城造り(文禄年間)も自前で行わざるをえません。そのことを考察したのが第6章です。
その後、関ヶ原の戦い(1600年)直前の徳川家の城下町としての江戸を考察したのが第7章です。
関ヶ原の戦い後、徳川家康は征夷大将軍に任じられます。となると、江戸は天下人に相応しいものにならなければなりません。江戸の拡張が始まります。(第8章)
家康は子の秀忠に将軍職を譲って駿府に移りますが、江戸は家康、秀忠亡き後も将軍家の城であり、都市でなければなりません。(第9章)
本書は、史料と発掘遺跡によりながら、先達の説を批判すると共に緻密に自説を展開していきます。おそらく本書は、今までの江戸に関する氏の集大成ではないかと思えるほどです。
家康が入府する前の江戸は寒村で、江戸城も質素だったという説があります。今日の東京(江戸)の基を築いたのは徳川家康だといいたいのでしょう。その考え方が全て間違いというわけではないのですが、本書を読む前と後とでは、明らかに江戸に対する見方が変わることでしょう。
「江戸」を扱った小説といえば、「家康、江戸を建てる」 (門井慶喜、祥伝社文庫)でしょう。 私は最初そのタイトルから、江戸城の建築について書かれたものと思っていました。読んでみると、江戸という都市を造る物語でした。