江戸時代の中期から後期にかけて活躍した蘭方医(瘍医)・蘭学者である杉田玄白が生まれた日です。
享保18年(1733年)9月13日のことでした。
若狭国小浜藩酒井家の藩医杉田甫仙の子として、江戸牛込の中屋敷で生まれた玄白は、難産のために、誕生と同時に母親を亡くしています。
成長し、18歳となった玄白は、幕府医官西玄哲に蘭方外科を、宮瀬竜門に漢学を学び、宝暦3年(1753年)に若狭国小浜藩の藩医となりました。
22歳の頃、京都に住む山脇東洋が、宝暦4年(1754年)に官許の上で行った、日本初の人体解剖(腑分け)に刺激を受けた玄白は、のちにオランダ商館長が江戸参府した折の随行者オランダ通詞吉雄耕牛幸左衛門に出会い、本格的な蘭方外科を学びます。
やがて蘭訳解剖医書『ターヘル・アナトミア』を手に入れた玄白は、明和8年(1771年)3月4日、39歳の時、江戸千住小塚原(骨ケ原)刑場で、前野良沢と中川淳庵とともに、囚人の死体の腑分けを見学することになりました。
驚愕するほど精緻な『ターヘル・アナトミア』に感動した玄白は、翌日から良沢と淳庵とともに翻訳をはじます。
その『ターヘル・アナトミア』は、安永3年(1774年)、ついに、日本初の蘭方医書の和訳本である『解体新書』となって刊行されました。
この翻訳事業は、西洋医学を広く紹介するだけでなく、後世の日本医学界に大きな影響を及ぼしました。
翻訳した3人の苦労の様子は、文化12年(1815年)、83歳のときに完成した『蘭学事始』に玄白が自ら詳しく綴っています。また、『蘭学事始』は明治2年(1869年)に福沢諭吉によっても刊行しています。
翻訳だけでなく、学塾天真楼を開き、大槻玄沢・杉田伯元・宇田川玄真ら数多くの弟子の育成に努め、蘭学と医学の発展に貢献した玄白は、文化14年(1817年)4月17日、85歳で亡くなりました。
お墓は江戸芝(現在の東京都港区虎ノ門)に建つ天徳寺の塔頭栄閑院(猿寺)にあります。
[平成30年(2018)10月20日]掲載