無名庵川柳と号した柄井川柳(からいせんりゅう)が前句付点者(まえくづけてんじゃ)となり、初めての万句合(まんくあわせ)を興行した日です。
宝暦7年(1757年)8月25日のことでした。
享保3年(1718年)、江戸に生まれた川柳の始祖柄井川柳は、宝暦5年(1755年)、38歳のとき、浅草新堀端に住み、竜宝寺門前町の名主の職を継ぎました。
前句付点者になる前の経歴は不詳で、談林派俳諧の宗匠ともいわれています。
最初の万句合の後、毎年8月から年末まで月次(つきなみ)興行をし、山手を中心地にしたこと、時代性・進取性・都会性、俳諧性を意識した句を採用したことで人気を得ました。
宝暦12年10月15日(1762年11月30日)の句合には、投句がついに1万を越え、最終的に33年の間に230万もの句を集めています。
明和2年(1765年)、宝暦7年に出版した『万句合』の中から756の佳句を精選し、呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)が前句を省いた句集『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』を下谷竹町の版元星運堂(花屋久治郎)から協同出版すると、大変な流行となり、江戸随一の人気者となりました。
人気が嵩じ、川柳の選句が川柳点と呼ばれるようになると、さらに俳号だった「川柳」が作句そのものを指すようになったのです。
この『誹風柳多留』が採った編集方法によって、付句が独立詠みとして鑑賞されるようになり、川柳風狂句という新たな様式を生み、川柳という形態とジャンルが確立され、川柳は祖として仰がれるようになりました。
寛政2年9月23日(1790年10月30日)、川柳は73歳で亡くなると、竜宝寺に葬られました。
命日は現在、川柳忌と定められています。
また、最初の万句合を開催したと思われる場所を川柳発祥の地として、東京都台東区蔵前4丁目37に碑が建てられています。
[平成30年(2018)10月7日]掲載