書評『一休破戒帖 女賊始末』

書 名  『一休破戒帖 女賊始末』
著 者   平野 純
発行所   芸術新聞社
発行年月日 2021年6月1日
定 価    ¥Ⅰ700E

 

 

 「頓智一休さん」で親しまれる一休宗純(1394~1481)を主人公とした小説である。みずからを「狂雲子」と称した一休の実像はあまりにもわかりにくい。小説に立ち入る前に、その複雑な生涯の前半生を〈略歴〉としていささかたどってみたい。

 一休は応永元年(1394)元旦、洛西・嵯峨の民家に生まれた。6歳で母と別れ、臨済五山派の安国寺で授戒し、「周建」と呼ばれる。応永17年(1410)17歳、西金寺の謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を「宗純」と改める。応永21年(1414)21歳、師の謙翁宗為を失い、深い挫折と絶望に陥り、石山寺近くの瀬田川に身を投げるも、母の使者に救われる。応永22年(1415)22歳、近江堅田の華叟宗曇(けそうそうどん)の門に入り、改めて修行僧になる。華叟から「一休」の号を与えられる。

 応永27年(1420)27歳、初夏の夜、湖岸の漁船に打坐(坐禅)し、鴉の鳴き声を聞いて大悟を得る。華叟は印可の証を与えるも、一休は受け取らず辞退。
正長元年(1428)35歳、華叟遷化。一休は和泉、摂津、大和などを遊歴し、女犯、淫酒、風狂三昧にあけくれたとされる。

 前置きが長くなったが、本作のあらすじを紹介したい。
 永享3年(1431)、「都が下剋上の危機に見舞われた室町の乱世」が時代背景で、京の都は「人間の生き血を吸う魑魅魍魎どもの棲家」と化していた。
 破戒坊主になり果てた「八条院町の呑んだくれ出家」こと一休は38歳、17年ぶりにお冴(さえ)を抱く。多感な青春時代、21歳の一休はお冴を抱いていた。
 父とも慕った謙翁宗為を失った一休が瀬田の唐橋から琵琶湖に飛び込んだことは〈略歴〉でふれた通りだが、一休は「母の使い」ではなく、ゆきずりの近江女のお冴に救われ、やがて二人は大津の納屋で結ばれた。その時まで女を知らなかった一休にとってお冴はまさに観音様であった。「その後、一休は自分でももてあますほどの女好きになった」。

 一休と「女」と言えば、老境の一休がひたすらに愛した盲目の美女、森侍者(しんじしゃ)がいる。二人の出会いは一休77歳、森侍者30歳前後であったとされる。
一休の詩集『狂雲集』には一休と森侍者の赤裸々な愛欲讃歌の詩もある。
 禅僧一休に迫る上で、彼の性欲に対する問題をいかに解釈するかは避けて通れない。若いころの一休は、性欲は抑えるべきものだという戒律を守ろうとしていたが、壮年期を過ぎてからは酒場や遊女屋での風狂ぶりがめだってくる。

 物語に戻る。17年ぶりに一休と一夜を過ごしたお冴は姿を消す。お冴は四条大路で一二を争う高利貸・山城屋吉兵衛の情婦になっていた。一休はこの都のどこかにいるはずのお冴を捜している。が、お冴の行方は杳として知れない。
 越中と加賀をまたぐ北陸道の要衝・倶利伽羅峠(くりからとうげ)で、堺(さかい)の貿易商蓬莱(ほうらい)屋の荷駄が何者かに襲われた。警護の侍、人夫全員が殺され、奥州から運ばれる途中の砂金4万両が行方知らずになっている。
 七条河原の乞食たちを一手に牛耳り、都の最底辺に睨みを利かせる乞食の元締に孫八(まごはち)なる人物がいる。裏社会のしきたりなどには無頓着な一休と孫八の付き合いは3年前からだが、その筋から、一休はその一件にお冴がかかわっていると知る。やがて、お冴の「板書き」(人捜し用の似顔絵が書かれた板)が京の悪党のあいだに出回る。倶利伽羅峠で蓬莱屋の荷駄の列を襲ったのは大道(だいどう)豪安(ごうあん)の指示を受けた一蔵(いちぞう)と二蔵(にぞう)の兄弟、宗哲(そうてつ)と日顕(にっけん)と小弓(こゆみ)の5人がであった。
 上御霊社の裏に屋敷を持つ大道豪安は医師の立場を利用し、足利将軍家に深く食い込むなど都の政界を舞台裏で操る怪人物。山伏の一蔵、二蔵は親の代から豪安に仕える双子の兄弟。16年前の秋、兄弟は捨て子の小弓を拾う。小弓は豪安に玩ばれて育ち、やがて豪安の愛妾となり、一人前の女間諜に仕込まれる。お冴が山城屋吉兵衛の元から離れ自由になりたいとすると同じく、一蔵、二蔵の兄弟も、小弓も豪安の支配から逃れたいと思っている。
 7年ぶりに再会した禅僧の宗哲(そうてつ)、日顕(にっけん)は昔、西金寺(今は廃寺)で一緒だった一休の修行仲間である。三人は師謙翁なきあと抜け殻のようになり、一休は近江、円忍(のちの宗哲)は越前へ、日顕は摂津へと、三人はそれぞれの道を歩んでいた。
 が、皆どこかで道を間違えてしまったと一休……。
 日の本を統べる京の都は荒れ果てた。ことに寺の堕落が激しかった。臨済の若き僧侶であった彼らであるがゆえに三人はみな、京にいると息が詰まると思っていたのだろう。

 主な登場人物の造形でわかるように、複雑に込み入り、全く異なった筋のできごとが絡み合って物語は進行する。自由でありたい、人としてありたいと思う人々の願望と欲望。敵と味方がいつの間にか入れ替わり、予想もしない裏切者が登場するのである。
ラストシーンで、業を持つ人間の一人としての一休は大津の納屋の出来事がもたらした帰結の全てを知ることになる。
 21歳の時の自殺未遂事件が、この小説の「核」となっている。

 応仁・文明の乱が終わって4年後の文明13年(1481)11月21日、一休は波乱に富んだ88歳の生涯を終える。
 室町時代は正長(1428~)から文明(1469~)に至るまでの40年間に、12度の改元があったように、我が国でもつとも混乱期といわれる地獄の世相の中にあった。また室町時代は一休の生き方でも知れるように、自由な精神の羽ばたける世界を残していたともいえる。
 ところで、一休の出自は確かではなく、皇胤説がある。父は後小松天皇で、母は宮廷から身を退いた官女であった。また母方の祖父は楠木正成の孫の正澄であるともいう。生まれながらにして稀有な運命を負っていたというべきであろうが、平野純の本作『一休破戒帖 女賊始末』では、皇胤説の影は薄い。
 一休ははたして自らを皇胤であると自覚して生きたのだろうか。そうであるかないかによって、一休の意図した「破戒」の意味は大きく変わろう。

                   (令和3年6月28日 雨宮由希夫記)