頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー

第4回「戦乱と民衆」(講談社現代新書)

頼迅庵の新書・専門書ブックレビュー4

戦乱と民衆 (講談社現代新書)

戦乱と民衆 (講談社現代新書)

 

 

 本作は2017年10月に国際日本文化研究センター日文研)で行われた一般公開シンポジウム「日本史の戦乱と民衆」を新書で出版したものです。4つの基調報告と一般公開座談会そして座談会の3部構成となっています。

 まず、4つの基調報告ですが、内容と報告者(敬称略)は以下のとおりです。
1. 白村江の戦いと民衆(倉本一宏)
2. 応仁の乱足軽(呉座勇一)
3. オランダ人が見た大阪の陣(フレデリック・クレインス)
4. 禁門の変 -民衆たちの明治維新磯田道史
白村江の戦いとは、「唐と新羅の連合軍によって滅ぼされた百済を復興するため、倭王権が兵を朝鮮半島に送り、唐・新羅連合軍」と「激突し、大敗を喫した戦い」です。天智2年(663)8月のこととされています。
 倉本さんは、まず白村江の位置確認を行った後、「白村江は百済復興戦の主戦場ではない」し、軍の主力は新羅の都金城(慶州)めざして進撃していたのだと主張します。つまり、倭国の「主力軍は白村江をめざしていなかった」というのです。
 では、白村江をめざしていたのは何か、なぜ戦いで敗れたのでしょうか。それは倭国軍の第三軍すなわち輸送船団だったからだというのです。『日本書紀』『旧唐書』の記載から「戦うつもりも装備」もなかったからで、軍船ではなく輸送船で、もともとは漁船だったのではないかと推測しています。倭国では、「大王の命を受けた地方豪族が、自分の支配する地域の農民を連れて出兵」し、漁船を徴用したのではないかというわけです。となると、唐の「国家軍であり、訓練された統制のとれた軍隊」に敵うはずがありません。動員された農民たちこそいい迷惑だったというわけです。
 倉本さんは、さらにこの時期の半島出兵の本当の理由を考察し、併せて、白村江で生き残った兵士たちのその後について紹介しています。最後に壬申の乱の影響にも言及しています。

 呉座さんは、ベストセラーとなった『応仁の乱』の著者でもあり、この時代がフィールドワークです。今回は「足軽土一揆」について取り上げています。
 足軽とは、「応仁の乱から出現した」新戦力です。「真如堂縁起」の略奪を行う足軽の図とともに紹介されることが多いです。
 足軽は甲冑を着けず、「剣だけを持って敵軍に突入する」歩兵という面と「敵がいるところには攻めかからない」で「敵がいないところに押し入って、放火してモノを取っていく悪党・強盗」という面の二面性を持っています。
 この足軽は、「民衆が足軽と称して好き放題にしているので、それを真似て下級武士も足軽と名乗って好き放題に暴れて略奪をしている」ように、民衆や下級武士が構成員でした。では、なぜそうなるかというと「足軽と称することで、略奪行為を戦費調達という名目で正当化することができたからです。」そして、「足軽とは、土一揆のようなことをする存在である、と当時の人々は認識していたのです。」
 土一揆とは「幕府に対して徳政令を出させる」つまり「借金を棒引きにする運動」ですが、同時に「徳政を要求して金融業者に押し入って破壊行為をおこない、雑物、すなわちそこにある物を取っていってしまう」者たちでもありました。この土一揆には、馬借が多く参加しており、馬借は土一揆の別称にもなっています。
 京都を襲った土一揆は、1470年代は全く発生していません。「この時期に何があったのか。そう、応仁の乱です」。応仁の乱は、1467年から1477年まで続きました。「それまで土一揆を起こしていた人たちが、応仁の乱が起きたために足軽になった」ということです。
 つまり、「飢饉や戦乱が頻発する時代には民衆は生き延びることに必死で、生きるためには手段を選ばなかった」ということになります。
 
 クレインスさんはオランダ人です。日欧交渉史を専門としている方のようです。
 氏は大坂冬の陣、夏の陣を取り上げます。当時大坂には、イエズス会士とともにオランダ人も滞在していたのです。オランダ人は、1609年に「長崎の平戸に商館を設立して、家康が亡くなるまで、日本国内を自由に行き来することが許されて」いたのです。彼らは主に毛織物を販売していたようです。 
 クレインスさんは、そんなオランダ人の書簡を取り上げます。これは同時代の外国人による貴重な証言だからです。例えば、ワウテルセンとテン・ブルッケの連名書簡では、豊臣方の数人の大名が寝返って城に火を付けた、と書かれているようです。これは「日本側史料にはない新しい情報」で、「こうしたオランダ側史料を突き合わせることにより、複眼的かつ立体的に」大坂の陣における民衆等の動向を復元できるようになる可能性を指摘しています。
 なお、徳川家康イエズス会士にはあまり評判はよくなかったようです。

 磯田さんは、民衆を「主語とした京都の維新史」の試みを禁門の変蛤御門の変)を例に述べています。
 禁門の変とは、元治元年7月19日に長州勢が御所に攻め寄せて、孝明天皇を奪取しようとして敗北した戦いのことです。
 この変事に際して、何と京都の市民は逃げていないのです。例えば、金七という米搗きのお爺さんは、長州が攻めてきたので屋敷の人足に雇われます。1両2分をもらう約束だったというのです。國分胤光は、当時七歳でしたが、「子供心にそれ(禁門の変、筆者注)は面白してとて、朝飯も忘れ、なお門前に」立って見ていたというのです。
 しかしながら、実際に戦が始めると兵火にかかり、「親類縁者のない者は、東は鴨川河原、西は千本の野が避難先で、野宿」することとなったようです。そして、火を放ったのは、長州や薩摩もそうですが、それ以外に「会津藩桑名藩が、一橋慶喜の指示を受けて手当たり次第に放火したことを、京都府民は正しく認識して」いました。
 焼け跡には死者がころがっていて所持金を持っている者もいました。「会津も桑名も分捕り、追剝ぎをしていません。誰が獲っていったかというと、遺体を片付ける係の人」でした。「彼らの中には、その後、新京極あたりで商売を成功させた人もいる」というのです。民衆の逞しさを表した事例といえるのではないでしょうか。
 災禍は非常に広範囲に及びましたが、復興はなかなか進みませんでした。その理由を「金を貸すものがいない。つまり金融システムが破壊されてしまった」からでした。「だから京都は深刻な住宅不足になった」のです。「だいたい明治10年くらいまで、こうした状態は続いたよう」で、磯田さんは、「維新後に京都が首都になれなかった理由の一つは、これ」だというのです。
 とするならば、勝海舟による江戸無血開城がいかに大きな功績だったか、私は改めて認識を新たにしました。単に江戸市民を兵火から守っただけでなく、日本の近代史の行方も決める重要事だったのですね。

 長々と基調報告を紹介してきましたが、一般公開座談会及び座談会は、この基調報告をもとに議論されています。その内容は読んでいただければと思います。

 なお、座談会には「京都ぎらい」(朝日選書)の著者井上章一さんも参加されています。座談会の内容が想像できそうですね。
 全体200ページほどの新書ですので、肩ひじ張らすに読めるのではないでしょうか。面白いです。

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