『歴史こぼれ話』
第2回「踏絵とキリシタン(その2)」
出がらし紋次郎
会員、ならびに読者の皆さん、こんにちは。菊池先生よりご推挙いただき、前回よりブログの片隅を借り受けまして日本史に関するよもやま話をご披露させていただいている出がらし紋次郎です。
皆さんのなかには、会員でもない私が何でブログの一コーナーを担当し、書き込んでいるのかといぶかっている方々も少なくないかと思います。そこで、第2回掲載に先立ちまして、簡単な自己紹介から始めさせていただきます。
出がらし紋次郎。武州多摩郡(ごおり)町田村に育つ。幼い頃より読書に親しみ、長じて日本史に興味を持つ。大学では日本史を専攻し、卒業後は歴史書専門出版社で編集の職に就く。古今東西の小説を濫読するが、歴史小説・時代小説、特に奇想天を動かすがごとき奇譚、伝奇もの、あるいは正史では描かれることない稗史の類いを好む。読書の師である菊池先生より本コーナーへの執筆を勧められ、逡巡するものの、その恩義に応えるべく僭越ながら大役を引き受ける……。
ペンネームの由来でもあるテレビ版『木枯らし紋次郎』エンディングのナレーションにならって記すと、上のようになりますでしょうか。ナレーターだった芥川隆行の名調子を頭に思い浮かべながら、ご笑覧いただければ幸いです。
さて、本論です。第2回目の今回は、前回に引き続き「踏絵とキリシタン」のテーマで蘊蓄を傾けてみたいと思いますので、最後までおつきあいよろしくお願いします。
先ずは、キリシタンと信仰道具の関係をおさらいしてみましょう。日本人へのキリスト教の布教は、天文18年に鹿児島に上陸した宣教師ザビエルによって始まります。布教が展開するなか、キリシタンたちはキリスト教への信仰のかたちをさまざまな聖具(信仰道具)に求めるようになっていきます。最初のころは宣教師が持っていたコンタツ(数珠)やメダイ(聖人・聖女らが彫られたメダル)、十字架をねだっていましたが、日本人キリシタンの増加につれて品薄になっていき、ついには国内でも製作されるようになっていきました(原城跡などから遺品が出土しています)。しかしそうした蜜月時代も長くは続きませんでした。天正15年発布の伴天連追放令を皮切りに、以降、江戸時代を通して長く禁教政策が実施されることは皆さんご存知のことでしょう。ここで禁教の道具として利用されたものが、先に記した聖具(信心具)でした。特別な思いのこもった聖具を踏みにじるという侮辱的行為をもってキリシタンか否かの根拠としたわけです。
当初、自発的に九州各藩で行われていた絵踏には、キリシタンから押収した聖具や信心具が転用されていました。それらの多くは紙を素材とした踏絵(紙踏絵)でした。紙踏絵には押収した聖像画類と、それを模して描いたものの二種類がありましたが、いずれも紙製品であったため、穿鑿対象者が転宗者から全領民に増えて行くにつれてその耐久性が問題となっていきます。早い話、紙製なので何度も踏ませていくうちに破れて使い物にならなくなってしまったのです。そこで登場したのが、キリシタンから没収した銅製メダイを木板に填め込んだ、より強度のある板踏絵でしたが、それでも数年間も使用すると木板が破損したり、メダイが割れてきます。そこで、寛文9年に長崎奉行所は長崎在住の鋳物師に命じて、さらに強度の強い金属製の踏絵の製作に着手しました。それが、「十字架上のキリスト」「エッケ・ホモ(この人を見よ)」「ピエタ」「ロザリオの聖母」を主題とした、銅と亜鉛の合金製の真鍮踏絵20枚です。
この真鍮踏絵への移行をターニングポイントに、絵踏の持つ意味合い、性質が大きく変わることになります。踏絵が、紙踏絵や板踏絵のようなキリシタンの信心具から、キリシタンでもなく、ましてやキリスト教の教義すら理解していない鋳物師が作った真鍮踏絵へ代わったことは、とりもなおさず踏絵そのものの「信仰された聖具」から「踏ませるための道具」へ大転換であり、キリシタン捜索手段(刑事手続)から非キリシタン証明手段(行政手続)への変容、そしていつしか町人や村人にとっては年中行事の一つになっていったのです。
と同時に、真鍮踏絵による絵踏は、皮肉にも潜伏キリシタンたちを助けることになりました。信心具を使用しない絵踏を受け入れて、それさえ行えば組織を維持できるという現実的解釈があったからこそ、彼らは進んで「踏む」という行為を選択したと言えるでしょう。キリシタンとして生きるためにみずから踏絵を踏む――このねじれ的な逆転現象の裏には、ともすれば現代の私たちが彼らに対して抱きがちな、キリシタン=被迫害者という悲劇的な感情を越えた、彼らが持ち続けた「したたかさ」すら存在していたのではないでしょうか。こうして信仰を守り続けた、いわゆる潜伏キリシタンがカミングアウトしてその存在を明らかにするのは、まだずっと先、明治になってからのことでした……。
最後になりますが、踏絵のその後をたどって本稿を終わりにしてみたいと思います。
現在、東京国立博物館には19枚の真鍮踏絵と10枚の板踏絵が、その他多くの信仰物と併せて「長崎奉行所キリシタン関係資料」の名称で国指定の重要文化財として所蔵されています(作製されたのは20枚でしたが、前回記したように文化2年に天草沖で富江藩が1枚を紛失したため19枚しか残っていなかったのです)。ではなぜ、長崎奉行所に管理・保管されていた踏絵が東京国立博物館に収められているのでしょうか。ここにもちょっとした因縁話が残っているのです。
幕末、西洋列強が開国を求めるなか、安政5年に日米修好通商条約が締結されましたが、その第8条には、「すでに長崎役所管内では絵踏みは廃止している」と記されています。幕府は「すでに」という文言を盛り込むことで、自発的に絵踏みは廃止しているということをアピールするねらいを持っていたのです。この結果、長崎奉行所が管理していた踏絵は、立山役所の宗門倉のなかに死蔵されてしまいました。やがて江戸幕府が倒れ明治新政府が成立し、長崎県の誕生など行政機構の改編に伴い、踏絵を含む旧長崎奉行所文書は長崎県庁に引き継がれます。しかし、鎖国体制の名残でキリシタン禁制の証拠でもあった踏絵類は、ひょっとすると外交問題にまで発展しかねない、前時代の「負の遺産」とも言える存在でした。処遇に困った長崎県は対処法を新政府に求めます。申し出を受けた教部省は太政大臣の決議を求め、結果、すべてのキリシタン関係資料の政府移管が認められることになります。その後、明治33年資料群は新設の東京帝室博物館に移管され、現在は昭和27年に改称された東京国立博物館で保存・管理されているわけです。
こうして歴史の表舞台から退いたように見えた踏絵でしたが、明治39年に開催された東京帝室博物館特別展で一般に公開され、その後は常設公開されることになります。かつては外交問題への発展まで懸念された踏絵は、ようやく歴史資料として認識されるまでに至ったのです。そして、この特別展を契機に、全国的なキリシタンブームが起こります。
ところで、先に記したように長崎奉行所旧蔵品はすべて東京国立博物館に所蔵されていますし、自前の踏絵を持っていた小倉藩や熊本藩の踏絵は行方不明になっています。それなのに、現在、全国の大学や博物館、あるいは個人が多くの踏絵を所蔵しているのはなぜでしょうか。実はそれらは、このキリシタンブームに便乗して大量に作られた模造品なのです。
遠藤周作は、長崎で板踏絵を偶然に目にしたことが、『沈黙』執筆の機会となったと書いていますが、残念なことにこの板踏絵は模造品の一つということになるでしょう。しかし、たとえそれが本物であっても、模造品であっても、そこから天啓を得てかの名作を書き上げたことに間違いないと思います。
皆さんも機会があれば東京国立博物館に足を運んで踏絵をご覧になってみてはいかがでしょうか。遠方で難しい方は、同館のホームページから画像検索することも簡単にできます。寛文9年の製作依頼、江戸時代を通じて200年もの間、長崎をはじめ九州各地を巡り、老若男女、さまざまな職業、身分の人々に踏まれた踏絵が語りかける「声なき声」が聞こえてくるかもしれません。
次回もまた、日本史のよもやま話を探し出して皆さんにご披露できればと思っています。よろしければまたお付き合い下さい。ずいぶんとお達者で。
【参考文献】