室町時代後期から戦国時代にかけて活躍した武将、足利義明が敗死した日です。
天文7年(1538年)10月7日のことでした。
文明14年(1482年)頃、足利義明は、第2代古河公方足利政氏の次男、第3代高基の弟として生まれました。
幼少時に僧籍に入り、長じると、鎌倉府にとって要職とも言える鶴岡八幡宮若宮別当(雪下殿)となりました。
しかし、永正の乱で父と兄とが対立したのをきっかけとして、永正7年(1510年)に還俗し、義明と名乗ります。
父や兄と不和となった義明は奥州を流浪しますが、永正15年(1518年)頃、上総真里谷武田氏に迎えられ、下総原氏の小弓城(千葉市南生実町)を奪取すると、房総に勢力を浸透させました。
小弓公方(小弓御所)と尊称された義明は、古河公方と同等の権限を行使しながら、後北条氏と手を組む兄の古河公方高基と敵対します。
天文6年(1537)、義明は里見義尭(よしたか)と結託して、東国の制圧を望みますが、甥の4代古河公方足利晴氏と対立。
翌年10月、下総国府台(こうのだい)で北条氏綱の軍勢と戦い、弟の基頼と子の義純とともに敗死しました。
[平成30年(2018)10月29日]掲載