大正から昭和にかけて活躍した俳人、長谷川かな女が生まれた日です。
明治20年(1887年)のことでした。
東京日本橋に店舗を構える老舗商家の番頭の娘として生まれたかな女は、長じると松根東洋城に俳句を習いました。
明治42年(1909年)、富田零余子(れいよし)と結婚すると、大正2年(1913年)には、夫婦ともども高浜虚子に師事し、『ホトトギス』で活躍。
杉田久女・竹下しづの女と並んで、近代女流俳人の草分けであり、第一人者として名を成します。
大正10年(1921年)に零余子が主宰で創刊した「枯野」を、昭和3年(1928年)に零余子が亡くなり、廃刊になるまで助けました。
昭和5年(1930年)には、自ら「水明」を創刊し、昭和41年(1966年)、紫綬褒章を受章しています。
『龍胆(りんどう)』『川の灯』『雨月』などの句集を遺したかな女は、昭和44年(1969年)9月22日、埼玉県浦和の自宅で老衰による肺炎のため、81歳で亡くなりました。
[平成30年(2018)10月22日]掲載