北条氏討伐を企んだ比企能員(ひきよしかず)が反乱を起こした日です。
建仁3年9月2日(1203年10月8日)のことでした。
鎌倉幕府初代将軍源頼朝の死後に合議衆に加えられた能員は、娘である若狭局と二代将軍頼家の間に長子一幡(いちまん)が生まれたことで、将軍の外戚として幕府の要職に就き、北条氏と匹敵するほどの権勢を振るいました。
しかし、比企氏の勢力に恐れを抱いた、頼家の母である北条政子や北条時政と対立を深めます。
同年8月に頼家が病に倒れ、機を得た時政は、日本国総守護職と関東28ヶ国総守護を一幡に、関西38ヶ国の地頭職を頼家の弟である実朝に譲ると決めてしまいます。
これに不満を抱いた能員は、快復した頼家と時政追討を謀りました。
しかし、事前に陰謀を察知した政子は、時政と相談。
時政は大江広元の力添えを得るとともに、手下の天野遠景や仁田忠常らを遣い、9月2日、自邸に呼び出した能員を刺殺しました。
能員謀殺の報せを受けた比企一族は屋敷に立て籠もり、時政の放った大軍に防戦しましたが、ついに自ら屋敷に火をつけ、一族郎党は自害します。
運良く逃げ出せた者も、数か月の間にみな討たれてしまいました。
現在、比企邸跡に建てられた妙本寺(鎌倉市)に、比企一族の墓が存在しています。
[平成30年(2018)10月8日]掲載