江戸時代後期の国学者で、国学四大人のひとりとして有名な平田篤胤が生まれた日です。
安永5年(1776年)8月24日のことでした。
篤胤は、出羽秋田佐竹藩大番組頭大和田清兵衛祚胤(さちたね、としたね)の四男として、久保田城下に生まれました。
寛政7 年(1795年)、二十歳の時に脱藩し、江戸に出て苦学する中、5年後に備中松山藩士平田藤兵篤穏(あつやす)の養子となります。
享和元年(1801年)、生前の本居宣長に入門したと称していますが、実際には享和3年頃、宣長の書に啓発され、没後の門人となる許可を得た夢を見たとし、家塾真菅乃屋を開いたのち、文化2年(1805年)本居春庭に弟子入りしています。
古典研究から宗教研究へと学風が移り、儒教を批判、尊王復古を主張し、次第に本居宣長の考えから離れていき、独特の平田神道・平田国学を作り上げました。
とくに、神代文字である日文(ひふみ)を存在するとした見解は有名です。
この篤胤の活動は、地方の神官や豪農らに支持され、幕末の尊皇攘夷運動にまで繋がっていきます。
独自の国学を完成させた篤胤は、文化5年(1808年)、神祇伯である白川家より、文政6年(1823年)には、吉田家より諸国神職への古道教授を任されました。
のち、尾張藩に仕官したり、水戸藩へ接近したりしましたが、天保12年(1841年)幕府の忌諱に触れ、著述禁止と秋田への帰藩を命ぜられてしまいます。
国許でも門人は増え続けたものの、江戸へ戻れぬためか、失意のうちに、天保14年閏9月11日(1843年11月2日)、68歳で亡くなりました。
篤胤の死後も、平田国学は明治以降の天皇を中心に据えた国粋主義に影響を与えたのです。
[平成30年(2018)10月6日]掲載