幕末期、公武合体派が、討幕と王政復古を企んだ尊皇攘夷過激派を京都から追放した――八月十八日の政変が起こった日です。
文久の政変、禁門の政変とも呼ばれています。
文久3 年(1863年)8月18日のことでした。
前年より、長州藩は真木和泉ら尊攘過激派浪士や三条実美ら急進派の公家と手を結び、攘夷実行を幕府に迫っていました。
腰の定まらない幕府に対し、業を煮やした彼らは、文久3 年8月28日に大和行幸と攘夷親征の詔勅を取り付け、一気に討幕と王政復古を成し遂げようと企みます。
この動きに危機を感じた、公武合体派の会津藩と薩摩藩が尊攘過激派の排除を画策。
攘夷佐幕派の中川宮や近衛忠煕、京都守護職松平容保、京都所司代稲葉正邦らが、8月18日、会津藩と薩摩藩に御所を警固させ、大和行幸延期の決定を手にします。
結果、長州藩は堺町御門の警固から解任、三条実美ら急進派の公家も参朝禁止となり、彼らは京都から追放されてしまい、長州へ落ちていきました。
この政変以降、京都は尊攘過激派から公武合体派へと実権が移ることになったのです。
[平成30年(2018)9月30日]掲載