江戸時代後期の信濃国松代藩主、真田信濃守幸貫が生まれた日です。
幼名は次郎といいました。
寛政3年(1791年)9月2日、江戸でのことでした。
陸奥国白河藩主にして、寛政の改革を行った老中首座松平定信(楽翁)の息子として生まれた幸貫は、8代将軍徳川吉宗の曾孫に当たります。
のち、真田幸専(ゆきたか)の養子となり、文政6年(1823年)家督を継ぎ、真田家8代となりました。
俊才の幸貫は、専売即進、富国強兵、質素倹約、文教奨励、殖産興業など、多岐にわたる藩政改革を行いました。 特に洋学の研究に熱心で、佐久間象山や村上英俊らを輩出、要職に抜擢しています。
天保12年(1841年)、水戸藩主徳川斉昭の薦めで、老中に抜擢されると、水野忠邦が主導する天保の改革に協力しはじめます。
翌年には海防掛を拝命し、佐久間象山を顧問に迎え、異国船打払令緩和を提案しました。
しかし、晩年は藩財政に困窮。重臣間に改革方針を巡る争いが続き、幕末まで影響を残してしまいます。
江戸時代後期における賢君のひとりと評された幸貫は、弘化元年(1844年)5月、病気で職を辞し、嘉永5年(1852年)に隠居すると、同年6月17日(1852年8月2日。3日/7月19日、8日/7月24日とも)、62歳で亡くなりました。
文人としての才能を発揮し、書画や和歌などに堪能だった幸貫は、江戸に在府しているときは、お忍びでの市中巡りを好んだそうです。
[平成30年(2018)9月29日]掲載