遠山左衛門尉景元が、西ノ丸小姓組景晋(かげくに、かげみち)の子として生まれた日です。幼名を通之進(みちのしん)といいました。
寛政5年8月23日(1793年)のことでした。
景元は、西ノ丸小納戸頭取格、小普請奉行、作事奉行、勘定奉行公事方などを経た後、天保11年(1840年)3月に江戸北町奉行となりました。
天保の改革の時には、倹約方針を採り、厳しく市中を取り締まる老中水野忠邦と鳥居耀蔵(のちの南町奉行)に対して、南町奉行の矢部定謙とともに激しく抵抗し、株仲間解散の発令を遅らせたり、芝居小屋を廃止から守ったりしました。
庶民派の名奉行と評判が高く、大岡越前守忠相以来の裁き上手と称され、庶民に愛されましたが、水野から不興を買ってしまい、天保12年(1843年)2月、市政から外され、大目付に転任となってしまいます。
改革に失敗した水野が失脚した後、弘化2年(1845年)3月、南町奉行に復帰すると、嘉永5年(1852年)3月、病気のために辞職するまで務めました。
翌月には隠居し、帰雲と号した景元は、安政2年2月29日(1855年4月15日)、63歳で亡くなります。
東京都豊島区巣鴨の本妙寺に墓が建てられました。
通称が金四郎だったため、「遠山の金さん」として講談や浪曲、芝居、テレビなどで知られた景元は、若い頃は放蕩で、下情に通じていました。
また、無頼の徒と交際していた影響か、桜の彫り物をしていたそうですが、どのような模様なのか、身体のどこに入れていたかは諸説あります。
[平成30年(2018)9月27日]掲載