室町幕府三代将軍足利義満が生まれた日です。 北朝歴延文3年/南朝歴正平13年8月22日(1358年)のことでした。 足利義満は、二代将軍義詮(よしあきら)と、石清水八幡宮検校善法寺通清の娘・紀良子(きのよしこ)との間に長男として生まれました。
幼名を春王といいます。
貞治6年/正平22年(1367年)に義詮が病を得て亡くなると、家督を継ぎ、応安元年/正平23年(1368年)、将軍に就任します。
永和4年/天授4年(1378年)には、室町殿(花の御所、花亭)を造営し、移住すると、義満時代の土台を固めます。
翌年には、管領細川頼之を廃し、斯波義将を後任に迎え、親政をはじめました(康暦の政変)。
明徳元年/元中7年(1390年)、幕府開闢以来の重臣土岐康行を破ると(美濃の乱)、明徳2年/元中8年に山名氏清を討ち取り(明徳の乱、内野合戦)、続けて、応永6年(1399年)には大内義弘をも滅ぼします(応永の乱)。
こういった反幕の有力大名は、南朝を旗印にして、自らの正統性を訴えましたが、明徳3年/元中9年(1392年)、義満は南朝の後亀山天皇から神器を接収、北朝の後小松天皇へ譲らせ、南北朝を合一しました。
義満は反乱を鎮圧する間の応永元年(1394年)、嫡男の義持に将軍職を譲り、太政大臣となっています。
翌年には出家し、応永4年には、京都北山に仙洞御所に擬した金閣(鹿苑寺、北山第)を建立。和歌や音曲、能楽、宋や元の名画に親しみ、北山文化を開花させました。
中国との外交も積極的に進め、応永8年(1401年)、元寇以降中断していた国交を回復。倭寇を鎮圧し、冊封されると、明との勘合貿易をはじめました。
翌年届けられた建文帝の詔書には[日本国王源道義]と記され、義満も[日本国王臣源]と返しています。
公武ともに絶大な権力を振るった義満でしたが、咳病を患い、応永15年5月6日(1408年5月31日)、北山第で急逝しました。
現在は51歳のまま、相国寺鹿苑院で眠っています。
[平成30年(2018)9月25日]掲載