石井十次が岡山市内の三友寺を借り、本邦最初の孤児院である[日本孤児教育会]を創設した日です。
明治20年(1887年)9月22日のことでした。
十次は、慶応元年4月11日(1865年5月5日)、日向国高鍋藩児湯郡上江村(現在の宮崎県高鍋町)で暮らす、下級武士万吉の家に生まれました。
藩校明倫堂に学んだあと、東京芝の攻玉社を中退。小学教員、警察官を経たのち、宮崎病院院長の荻原百々平(おぎわらどどへい)と出会い、岡山県甲種医学校に入学します。
キリスト教徒である百々平から、医学の道を勧められたのです。
そして、在学中、イギリスで孤児院の院長を務めていたジョージ・ミュラーの講演に感銘を受け、岡山孤児院の前身である[日本孤児教育会]を創設、孤児救済活動を開始します。
孤児院では、家族式の教育と自給自営の労働を採用、人格形成を目標としました。
濃尾地震や東北大凶作の後には孤児や棄児を数多く収容し、のち、倉敷紡績の社長大原孫三郎が援助者となったことで、より一層孤児救済に力を尽くしました。
イエスの教えに二宮尊徳の精神を取り入れ、敬天愛人を理想とした十次は、長年にわたる過酷な献身のために腎臓を悪くし、大正3年(1914年)1月30日に亡くなります。
49歳のときでした。
[平成30年(2018)9月22日]掲載