大阪の政商藤田組と長州閥の政治家井上馨(いのうえかおる)とが結託し、贋札を製造したとして、嫌疑をかけられた藤田傳三郎が逮捕された日です。
明治12年(1879年)のことでした。
前年12月に、各府県から政府に貢納された地租など、国庫金の中から贋札が発見されました。
「ドイツに滞在中の井上と藤田が手を結び、現地で製造した贋札を密かに日本へ持ち込み、藤田組(藤田傳三郎商社)の運営資金にしようと企んだ」という手代の密告から、藤田組に家宅捜索が入り、藤田は中野梧一ら7名とともに検挙されたのです。
長州藩奇兵隊出身の藤田と久原庄三郎らが興した商社・藤田組は、井上の後ろ盾により急成長。
旧幕臣の中野(前名・斎藤辰吉)は、井上の引き立てで初代山口県令となっていたため、周囲からやっかまれていたことが引き金になりました。
また、政権や軍部などでの長州と薩摩の派閥争いがその下地を作ったとも考えられています。
藩閥政治や官僚と政商の癒着に批判的な民権派の政治家や市民にとって、格好の攻撃材料となりましたが、12月20日、証拠が見当たらなかったため、全員無罪、釈放されました。
事件はその後、明治15年(1882年)9月20日、思わぬ形で解決となりました。
神奈川県愛甲郡中津村で、小学校訓導を務める、医師にして画家であった熊坂長庵宅から、贋札や印刷機器が見つかったのです。
これで藤田らの疑いは晴れましたが、現在では熊坂も冤罪である可能性が高いとする説もあり、藤田組贋札事件の真相は、いまだ闇の中なのです――。
[平成30年(2018)9月15日]掲載