今日、9月2日は――
東京湾内のアメリカ軍艦ミズーリ号の甲板上で、第二次世界大戦の連合国に対し、降伏文書に調印した日です。
昭和20年(1945年)のことでした。
8月6日に広島、8月9日に長崎へ原爆が投下された日本は、8月14日、かねてより発表されていたポツダム宣言の受諾を連合国に通達。その翌日には、ラジオの玉音放送をもって、国民へ降伏を知らせました。
同月30日、厚木飛行場に連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が降り立った3日後、重光葵(しげみつまもる)外相・梅津美治郎(うめづよしじろう)参謀総長らの全権団が降伏文書に調印し、5年にもわたる太平洋戦争に終止符が打たれました。
重光葵って、どんな人?
明治20年7月29日(1887年)、大分県大野郡三重町(現在の大分県豊後大野市)に、豊後杵築藩士の家系で郡長を務める重光直愿(なおまさ)と、重光本家・松子の次男として生まれました。
しかし、本家に男子が絶えたことで、跡目を継ぐために養子に入り、当主となりました。
のち、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、外務省に入省しますが、特命全権公使として中国在勤中に、満州事変が勃発。上海では、天長節祝賀会式場に爆弾を投げられ負傷、右足を失ってしまいます。
帰国後は、東条英機内閣と小磯國昭内閣では外務大臣、東久邇宮稔彦王内閣では大東亜大臣・外務大臣を歴任しました。
降伏文書に調印した葵は、A級戦犯容疑で極東国際軍事裁判において禁錮7年の判決を受けてしまいますが、仮釈放・景気満了になると、1952年には、公職追放解除ののち改進党総裁に就任。再び政治家として活躍します。
その後、鳩山一郎内閣(第1次〜第3次)の外務大臣を務めると、昭和32年1月26日(1957年)、神奈川県湯河原町の別荘で、狭心症の発作が起こり、急逝しました。
重光葵、69歳のときでした。
重光葵記念館
9月2日
今日の歴史的事件
降伏文書調印
[平成30年(2018)9月2日]掲載