今日、8月26日は――
関ヶ原の戦いの幕開けとも言える、伏見城の戦いが起こった日です。
慶長5年7月18日(1600年)、徳川家康の家臣である鳥居元忠や松平家忠らと、毛利輝元の名で城の明け渡しを迫る宇喜多秀家や小早川秀秋らが戦いました。
上洛の要請に応じなかったため、謀反の疑いありとして、会津の上杉景勝を討伐すべく、家康が東下した隙をついて、石田三成を中心とした勢力が伏見城を攻めました。
しかし、その動きを読んでいた家康と元忠は、事前に籠城を画策。鳥居たちは初めから死を覚悟のうえ、あえて伏見城で迎え撃ったのです。三成軍の足を止め、西へ引き返してくる家康軍の態勢を整えるためでした。
籠城する約2,000の兵に対し、取り囲んだのはなんと40,000もの大軍。
堀を埋め、銃弾や砲弾などを大量に浴びせ、攻めよせる三成軍の猛攻に、8月1日(1600年9月8日)、伏見城はついに落城に至ります。
元忠は、紀伊雑賀党鈴木氏の当主であった鈴木重朝(孫市)と一騎打ちとなり、城中で討ち死にしましたが(享年62)、目的を見事に果たしたのでした。
鳥居元忠って、どんな武将?
鳥居元忠は、天文8年(1539年)、三河国碧海郡渡郷(現在の愛知県岡崎市渡町)に、松平氏の家臣・鳥居忠吉の三男として生まれ、幼名を鶴之助、のちに彦右衛門と称しました。
家康が今川氏の人質となっていた「松平竹千代」時代からの側近で、姉川の戦いや三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなどに参陣、その忠節ぶりはのちに「三河武士の鑑」と讃えられます。
家康は関ヶ原の戦い後、元忠を偲んで、伏見城の血の浸みた畳を、江戸城の伏見櫓の階上に据えました。
また、血に染まった廊下の床板は「血天井」として、現在の京都市の養源院や宇治市の興聖寺などの天井に用いられています。
元忠たちの死を忘れず、将来にわたって無駄にしないよう、己を戒めるためでもあったのかもしれません。
8月26日
今日の歴史的事件
伏見城の戦い勃発
[平成30年(2018)8月26日]掲載