今日、8月22日は――
ロシアの皇帝ニコライ1世の命を受け、旗艦パルラダ号のほか、3隻の黒船を率いたプチャーチンが長崎に来航した日です。
嘉永6年7月18日(1853年)の出来事でした。
アメリカが派遣したペリーに対し、1か月半ほどの遅れで日本に現れたプチャーチンは、日露通商と国境画定をすべく、長崎奉行の大沢安宅に国書を提出しました。
ところが、オスマン帝国および英仏同盟軍とロシアとが対立したクリミヤ戦争の影響で、いったん日本から離れ、翌年の嘉永6年12月5日(1854年1月3日)に再度長崎に上陸、徳川幕府応接掛の川路聖謨や筒井政憲らと会談しています。
その後、嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に起こった安政東海地震などにより、中断を余儀なくされていた外交交渉が同年11月13日(1855年1月1日)に再開、5度にわたる会談の末、安政元年12月21日(同年2月7日)、日露和親条約が締結されました。
プチャーチンってどんな人?
エフィム・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチンは、1804年11月19日(露暦1804年11月7日)、サンクトペテルブルクで誕生しています。
日本での活躍が認められ、海軍大将に昇進した後は、文部大臣や国務顧問官などを歴任し、政治の世界で活躍した後、1883年10月28日(露暦1883年10月16日)にパリで亡くなりました。満79歳でした。
幕府との交渉のため、下田に停泊していた際、安政東海地震に襲われ、自艦隊の乗組員に負傷者が出ている中、怪我を負ったり、病気に倒れた地元住民の手当てを申し出ています。
応接掛だった川路聖謨と村垣範正が、プチャーチンを敬意をもって評価していた通りの人物だったのでしょう。
8月22日
今日の歴史的事件
プチャーチン来航
[平成30年(2018)8月22日]掲載